双眸は逃げられない
わたしは頭が悪かった。
昔からそうだ。頭も悪ければ要領も悪い。
なにかひとつ取り柄があればいいと優しい両親から愛を注がれてみたものの、なにひとつ花開かないままここまできてしまった。
それでも健康に笑顔で生きられれば素敵なことよ。
慰めの言葉をかけてくれる母の優しい表情に、わたしもこのようになりたいと思っていた。
歯を食いしばって手に血を滲ませて、地元の国公立大学の前期試験で落ちた。
後期試験も同じところに出願していたが、跳ね上がる倍率を考えると受かるはずがない。
やはりわたしはダメなのだと悲しみにくれながら私立大学への通学路を調べていると、知らない固定電話の番号から着信があった。
追加合格の知らせだった。
母は泣いてくれた。
がんばったかいがあったね、と。
がんばればきっと報われる、そう願うことでしか足を進められなくなりつつあった。
とん、と肩を叩かれて顔を上げると見慣れない男の人がこちらを見ていた。
顔を上げる、という時点でおかしい。
今日はバイトもないので談話スペースで自習していたはずなのに、いつのまに寝てしまっていたんだろう。
外はすっかり暗くなっているし、周囲には誰もいない。
「あっすみません」
慌てて荷物をまとめようとすると制された。
「最近毎日遅くまでいるでしょ。何してるの」
男の人は黒縁メガネ越しにわたしのノートを見る。
視線の先にはボールペンがあてもなく彷徨った渦巻き。
「や、わたし頭悪くて、みんなに追いつかなきゃと思って」
焦りと情けなさで泣きそうだ。
男の人は少し困った顔でとなりの椅子に座った。
「聞き方が悪かったね、ごめん。何の勉強をしているんだろうと思って」
早く帰りたい、この場から離れたい。
そう思いつつも、広げてあった共通教育の基礎英語の教科書を閉じて表紙を見せる。
「これなんですけど、さっぱり分からなくて、でもみんな簡単そうにしてるから毎日単語の意味を調べてるんです」
「そう。君は何科?」
ぐっと胸に刺さる質問だった。
馬鹿にされる。
言いたくない。
それでも逃げられない圧のようなものがあった。
真っ直ぐに向き合って目を見られると、ひたすら居心地が悪い。
「......英語科です」
「なら勉強した方がいいな」
即答でなんともないような口調が返ってきた。
「えっ」
うん?と彼はこちらを見る。
「いや、苦手なら正直避けるのもありかなと思ったんだけどね。まだ一年生だし、専門分野なら取り組んだ方が良さそうだなと」
教科書をパラパラめくって、わたしの書き込みの跡を見ている。
書き込み方で頭の悪さがばれそうでひやひやが止まらない。
「ほんと、要領が悪くて、分からないことが多くて、毎日残って単語調べてるんですけど、悩んでて」
「悩む?なにを?」
「えっ、いや、要領が悪くて」
「要領の悪さを嘆いてるってこと?」
会話の進まなさに戸惑ってしまう。
「あ、はい、そうかもしれません」
あー、と手をあごに添えるこの人はそもそも誰なんだろう。
大人びているので四年生か院生だろうか。
「おれは君の要領の悪さは知らないけど、悩んでたって君の分からないところは解決しないだろうね。少し感情に引っ張られすぎている気がするよ。悩んだって誰も答えなんかくれない。考えないと」
すっと、頭が冴えるような、いや、血の気が引くような感覚。
「毎日遅くまで残るのは立派だけど、努力に価値を見出してどうするの。結果のための努力であって、最初から努力を目的にしてしまうと精度が落ちるのは当然だよ」
ほら、と教科書本文の少し離れたページで同じ単語を調べているところを見せられる。
本文中の意味を示すために書かれたものではなくて、ひたすら辞書に書かれていることを羅列しただけのもの。
時計の針を進めるためにボールペンを動かしたもの。
自分を守る以外の何の意味があるんだろう。
なんだかとても情けなくて、さっきとは違う理由で目頭が熱くなる。
この人に言われなかったらいつまでこんなことしてたんだろう。
「努力は免罪符じゃなくて道のりだから。スタミナあるんだからもったいないよ。ゴールを決めて走ればもっと進める」
ガタ、と椅子の動く音。
わたしも慌てて席を立つ。
「すみません、お名前教えてくださいっ」
「家近く?ひとりで帰れる?」
「あっ、はい、図書館裏門出てすぐなので」
そう、じゃあ気をつけてね。
一言残して帰ってしまった。
安心か虚しさか、ため息をつくと頬が濡れていた。
疲れて見た夢かもしれなかった。
逃げ続けてきた自分自身でようやくスタートラインに立った。
ここまでくるのにものすごくくたびれた。
それでもここがスタートラインだった。
***
手巻きシーチキンおにぎり美味しすぎませんか
大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。