『一言の寿命』下

ただそれでも、もっともシンプルに自分の存在を許容してもらえたことが嬉しかった。どれだけ泣いても伝えきれないほど、嬉しかった。

前回はこちら。



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 すっと奪われたのは既に少し冷え始めていた一本目の缶で、手から離れていく滑らかな感覚を追うように振り返ると長い黒髪が数歩先を揺れている。
「ちょ、何してるんですか」
「それお誕生日プレゼントね」
 ふふ、と笑う学科の先輩は寒さで頬がほんのり染まっていて綺麗だった。細くて小さくて、それなのに絶対的な何かを持っている。彼女に干渉できるものはこの世にないと思えるような存在感。
「なんで亜美さんが知ってるんですか」
「あなたの学年の世話役だからね、最初に名簿もらってるもの」
 Aラインの紺色コートを揺らしてベンチに腰掛けるだけで絵になる。色彩を忘れた冬の景色は彼女を際立たせるためにあるような、彼女は望んでいないだろうに全てが彼女に擦り寄っていく。
 透き通るような白い肌と艶やかな黒はどちらが勝つでもなく調和していて、端正な顔立ちは他学科はもちろん他学部まで名前が知られているほどだ。誰もが憧れているけれど本人は英文学にしか興味がない様子で友人すらいるのか怪しいほど人と関わらない。たしかに世話役ではあったがもう一人にほぼ全て任せていて、彼女に頼んだ教授の狙いは失敗に終わったようだ。
 そんな彼女にこのように話しかけてもらったなんて、知られたら面倒だろうな、なんて贅沢な悩みか。
「今夜は大学でお祝い?」
 隣に腰掛けるのは気が引けて、自販機の側面に背中を預ける。
「いえ、課題の締め切りが近いので研究室をお借りしてました」
「真面目だね。英語学の課題?」
「おれ英語学以外の授業ろくに出てませんからね」
 亜美さんが缶を傾けたので、追いかけて一口飲む。いつもの甘さがすっと広がる。
「好きなんだね」
「そうですね。好きです、とても」
「好きなものがあるのは大切なことだね」
「はい、大切なことです」
 オウム返しになるのは寒さのせいか温もりのせいか。
 自分が何を好きかなんて考える隙間もなく過ごしていた頃のことを考えると、今はとても人間らしく生活できている気がする。好きなものが自分を構成していると考えるなら、ひとつひとつをもっと大切に扱わなければ。その向こう側にきっと見知らぬ自分がいる。
「そんな君に。はい」
 小さな可愛らしいリュックから、小さな包みを取り出す小さな手。文庫本より少し大きいくらいのサイズで、とても薄い。
「えっ、なんですか」
「あけていいよ」
 包みを受け取りベンチの傍で縁石に腰掛け、コーヒーを隣に置いた。包装紙が破けないよう、そっとテープを剥がしていく。
 すると緑の表紙が現れた。
 これは。
 参考文献に欲しかった本だ。
「これ、Barriersじゃないですか、欲しかったんですよ!言いましたっけ?」
「生成文法の概論受けてたから、手元に置いておきたいかな、と思って。プレゼントに手軽なサイズだし」
「いや、すっごい嬉しいです、うわ、X-bar Theoryだ」
 中身をぱらぱらめくっていくと、授業のレジュメや先輩の論文で見た樹形図が載っている。
 そして、最後のページに付箋が貼ってあった。

”生まれてきてくれてありがとう”

 はっ、と笑っていたはずが、笑いながら泣いていた。
「う、わ、これはずるい」
 彼女は何も言わず微笑んでいる。
「これはずるいですよ、こんなの」
 初めてもらった、自分を根本から認めてもらえる言葉。
 この一言に特別な意味はないと分かっている。今まで誕生日にもらってきた形式的なおめでとうの五文字と、根本は何も変わらないのだ。彼女が自分に特別な感情を抱いてくれている訳ではない。ただそれでも、もっともシンプルに自分の存在を許容してもらえたことが嬉しかった。どれだけ泣いても伝えきれないほど、嬉しかった。
「おれ、言葉には寿命があると思うんですよ」
「それは、興味深い考え方だね」
「この言葉の寿命、おれの余命とおんなじくらいだと思います」
 まだ生きられる。少なくとも次の今日までは。
 彼女はもう一度微笑んで繰り返した。
「興味深いね」















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「クランベリー型形態素」より大学1年生の慶と3年生の亜美。

リライト企画第一弾。2019年8月16日に公開したこちらのnoteのリライトです。

作中の一言は高校生のころ実際にもらった言葉なのですが、このnoteを書いていたらその友人から連絡が来ました。互いに連絡無精で年に一度とるかとらないかなのに、タイミング。内容は一緒にゲームしよ、でした。どんなに離れてても遊べるってすごいな。


先週のように上下編をまとめたnoteを明日公開しますが内容は同一です。

大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。