いつかあなたの隣で
社会人になって育成担当になってくれた先輩はあまりに優秀で優しくて冷たかった。
販売業に携わる限り避けて通ることのできない販売実績との戦いに私は心が折れそうで、いくら事務処理を覚えたところでその劣等感を滲ませてはくれなかった。
業務終了後の静かなバックヤードで先輩とふたりきり、山積みの書類に囲まれて私は新人用の業務振り返り日誌を書き、先輩は背丈ほどの段ボールに囲まれて着荷した商材の入庫処理をしていた。
日誌の、販売成績の欄でタイピングの手が止まる。今日は三件応対をした。入社して四ヶ月、一人で応対できるようになったのは進歩だがあまりに販売成績が悪い。今日の提案の成功率は一割ほどだ。
右手で適当にタイプ音を出しながら、卓上に立ててある電源を切った店内管理用タブレット端末の真っ暗な画面を利用して背後を確認してみる。
しゃがみこんだスーツの背中。片手に収まる小さな在庫管理用コードリーダをダンボールの中身へ順に向けつつ、もう一方の手で膝の上においたタブレットにチェックをつけている。あの作業もわたしがすると倍の時間がかかってしまう。読み込むコードはひとつの商材につき三種類、各コードは十五桁。先輩は記憶力がずば抜けていて、コードを三種類に読み込んでからタブレットと相違ないか確認するらしい。四十五の無作為な数字の羅列を私は覚えられない。
先輩の右手が止まってタブレットをスクロールし始めたところで振り返って声をかける。
「あの、マエハラさん、少しいいですか」
「ん、分からないところあった?」
こちらを向いた顔はいつも変わらぬ温度感で、動揺しているところを見たことがない。下を向いていたため落ちてきた前髪をかきあげる姿は絵になるな。そういえば配属が決まったとき同期に羨ましがられたっけ。そして同時に同情された。あんなにできる人の後輩になるのは大変そうだ、と。
「いえ、分からないところというか相談なんですけど、販売成績の悪さをどうにかしたくて」
少しだけ上がっていた眉が下がった。これは、何のスイッチだ。以前営業時間中に相談をしたときは「そんなのまだ気にしなくていいよ」とあしらわれた。営業終了後なら何かヒントをくれるかと思ったがそうではなかったか。
「こないだも言ったと思うけど、ミナガワさんはできる事務処理かなり増えてるし大きなトラブルも起こしてないだろ。業務の覚えるスピードに問題はないと認識してるし店長にもそう報告してる。数字なんて後からついてくるから焦らなくていいんだよ」
声が大きいわけでも、口調が強いわけでもない。淡々と吐き出される言葉に重みがあるのは圧とか迫力とかそういった類のもので、彼が販売実績で社内トップクラスなのも頷ける。学びたい意思をはねのけるなんて育成担当の趣旨に反することをさせてしまう何かが私にある、あるいは何かがないのだろう。
「マエハラさんは、いつ頃から販売成績を意識し始めましたか?」
んー、と顎に手を当てるその姿は応対中もたまに見かける。販売するための何かを思考しているのだろう、その姿は必ず成果を生んでいる。
「春に入社して、秋ごろかな。おれの最初の店舗は規模の大きいところだったしひとり立ちまで長かったよ。最初の二週間なんてシュレッダー業務しかしてなかった」
「え、一日シュレッダーしてたんですか?」
「そう。一日シュレッダーしてた」
少しだけ笑って先輩は背中を向け、入庫処理に戻った。みんな環境違うからね、それぞれでいいよ。念押しのような言葉に、ありがとうございますとだけ返して販売成績の欄に一行の実績と使い古した長い反省を書いた。連日書くことの少ない販売実績欄を埋めるように焦りが広がっていく。このスペースを、この虚無感を完全に持て余していた。
翌日、朝礼前にバックヤードでクリーニングキットの中身を補充しているとマエハラさんが出勤してきた。休憩室で荷物を降ろす前にこちらに顔を出してくれる。リュックを背負っているが物はほとんど入ってなさそうだ。
「マエハラさん、おはようございます」
「おはよう。補充ありがと、減ってた?」
「えっと、パワージェルがかなり減ってました」
「ふーん。なんでか分かる?」
わたしの手元には四種類の液体ボトルと眼鏡拭きに似た素材の大きなクロスの入ったプラスチックのケースが並んでいる。ビアガーデンでバイトしてたときにビール瓶を半ダースずつ運んでいたものに似てるな、人もアンドロイドも必要なものは同じなんだな、なんて考える。
「暑くなってきたから、ですかね」
「そうだね。アンドロイドの機体内に熱が籠らないようにジェルの循環が活発になるから。今日友達が来るんだったっけ、しっかりメンテしてあげな」
休憩室へ姿を消してしまう背中に急いで返事する。私の予約状況も事前に見てくれているあたりいい先輩だ。今日は私がこのアンドロイド販売店に勤めてから初めて、友人が来てくれるのだ。用件は家庭用アンドロイドのメンテナンス。先月試験に受かったおかげで基礎メンテナンスはひとりでできるようになった。大丈夫、ちゃんとできる。自信はあった。
夕方、友人がアンドロイドを連れてきた。アンドロイドといっても見た目は人間と変わらない。虹彩が青く光り、手のひら部分だけプラスチックが剥き出しになっているけれど彼らも私たちと似た服を着て街を歩く。
「久しぶり、こっちへどうぞ」
私も彼女も少しそわそわしながら待合席を素通りして奥の半個室ブースへ移る。アンドロイド販売店では個人情報を多く扱うため、応対は開けた場所では行わない。うちの店はGの文字の形をしたブースで行っている。観覧車のように向き合って座り、テーブルは必要に応じて壁から引き出すGの内側に折れている部分にモニタと操作盤が設置してあり、私たちはそれを使いながら応対を進めていく。ソファはふかふかで音楽はブースごとに店員が変更できる。トラブル防止のためお怒りのお客様をお連れする際は川のせせらぎ音を流すらしい。効果があるのか怪しいところだ。
ソファに座り向き合うとなんだか不思議な感覚だった。ミサちゃんは高校時代のクラスメイトで、いつだって笑顔の彼女にみんな惹かれていた。彼女に憧れて髪を伸ばして今もロングのままでいることはまだ本人にも伝えていない。
「すごいなぁ、ハルにアンドロイド見てもらう日が来るなんてね」
彼女は口元に手をあててふふっと笑った。釣られて私も笑ってしまう。
「ミサちゃんがはじめてお店に来てくれた知り合いだから嬉しいよ、ありがとね」
「うちのアンドロイド五年目なんだけどメンテナンス二回目かな、面倒でつい先延ばしにしてきたから助かったよ」
今回は就職の報告をしたところ落ち着いた頃にメンテナンスしてほしいと言われたことがきっかけだった。確かそのときは気になるところがあるという話だった。
「一応基本的なメンテナンスと、気になるところがあれば個別メンテナンスもするけどどこか見てほしいところある?」
ミサちゃんの隣に座っているアンドロイドの体格は持ち主とほぼ変わらない。とはいえ重量は数倍あるため座っているのはアンドロイド用の頑丈な椅子だ。ぱっと見た限り違和感はない。
「実は、襟足の部分をうちの犬が噛みちぎっちゃって」
持ち主がアンドロイドの頬に手を添えると黙って首を回し後頭部を見せてくれた。ショートボブの髪型のはずが、たしかに一部分だけ抜け落ちてしまっている。
「え、髪パーツ食べなかった?結構な量だよ」
「うん、大丈夫。すぐ吐かせたんだけどアンドロイドの方はどうしていいか分からなくて」
「分かった、じゃあまず髪パーツから補充するね」
アンドロイドの手のひらに手を重ねて認証。整備用コードを手のひらに入力してブースの真ん中の床に正座してもらう。
モニタを点けて虹彩認証し、キーボードで機体情報を入力していく。利用されている髪パーツを確認し操作盤に打ち込むと、回転寿司さながらの壁側のベルトでバックヤードから流れてくる。これはこのブースだけの設備で、パーツ探しに時間がかかる私にはかなりありがたい。
頭皮パーツをてんとう虫の羽のように開くと一回り小さい頭部カバーが出てくる。多くのセンサーが内蔵されていてそこそこの熱を放っているから長時間触れないように注意しないといけない。開いた頭皮パーツを内側から覗き込み毛根のない毛穴(と私たちが呼んでいる貫通型受けパーツ)を確認して糸通しを突っ込む。外側から擬似毛髪を差し込み補充していく。かなり繊細な作業なのでつい険しい表情になる。取り返しのつかないミスにはなりづらい作業だが、慣れていないため時間がかかってしまう。
足元のスイッチで流れている音楽を切り替えるとミサちゃんの好きなアイドルグループの曲だったようで少し間が持ちそうだった。
「ね、ハル、アンドロイドっていつ頃買い替えた方がいいのかな。もう五年だから少し考えてて」
手が止まった。
買い替えてほしい。
機体購入は各種販売項目の中でもかなり優先順位が高い。欲しい。一瞬で欲が脳内を満たす。
うわずりそうな声を必死に取り繕って言葉にする。
「そうなんだ。内部の調子も確認してみるね」
「うん、ありがと」
外装は特に問題ないし、駆動音も大きくない。動きは滑らかで、家事用アンドロイドにしてはかなり消耗が少ない。きっと大切に使っているんだ。ミサちゃんはそういう子だ。内部に問題がなければまだまだ使える。
髪パーツの補充が終わって、毛先をハサミで軽く整えると見た目は気にならなくなった。
次は内部のメンテナンスだ。アンドロイドの着ているシャツのボタンを外し手のひらにコードを入力すると腹部の片開きの小さな戸のロックが外れる。スイッチを押し込むと戸が開く。ここは消耗品を補充したり使用済みの廃棄オイルが溜まっている部分で定期的なメンテナンスが必須だ。この機体は自動セルフメンテナンスオプションを契約しているためかなり綺麗な状態だった。
「どう?」
ミサちゃんの少し心配そうな声。
内部が不調だと言えばおそらく彼女は信じてくれるだろう。だが彼女は新しいもの好きではないし、自分の販売成績が悪いからといって機体を売りつけるのか。
そんなこと、できるはずなかった。
「ううん、すごく綺麗だよ。この子しっかり自分でメンテナンスしてるしミサちゃんも補充用のツールを切らさないようにしてくれてるんだね」
「ほんとに、じゃあ良かった。ハルに見てもらってよかったよ」
彼女はありがとうと微笑んだ。
反射で下唇を噛んだ。
私は馬鹿だ。とんでもない馬鹿だ。
彼女の応対が終わる頃にはちょうど営業終了時間だった。お客様が店内にいなくなり、オイルなどをこぼしてしまったブースの床を雑巾で拭き掃除する。
「髪パーツ流してたよな、ちゃんとできた?」
顔を上げるとマエハラさんが通路から覗き込んでいた。いつもより柔らかい表情。私がはじめて友人を応対したことを喜んでくれているのかもしれない。私は床に座り込んで彼を見上げたままにしていないと涙が溢れてしまいそうだった。
「マエハラさん、相談じゃなくてお願いです。私に販売の仕方を教えてください」
彼は少し目を見開いた。一息置いて、彼もそのまましゃがみこんで視線を合わせてくれる。
「どうしたの」
「友達に嘘をついて機体を売りつけそうでした。こんなの耐えられません」
「そんなに数字を、気に」
しなくていいのに、と続く言葉を飲み込んでくれた。私がしゃがみこんだ彼から天井に視線を移したからかもしれない。喉が少し塩辛い。
「してたよな。前から。ごめんな、俺が新人の頃、数字について言われるの嫌だったからつい。環境によるって言ったの俺なのに俺の考えを押し付けてた」
座りなよ、とお客様用のソファを勧められたので従う。マエハラさんはスタッフ用のソファに腰掛けた。
「営業のかけ方って色々あるし人によっても違うからベストを考えるのは難しい。でもベターならいくらでもあるからまずは汎用性の高いものからな」
声がうまくでなくて、大きく頷く。マエハラさんは少し笑った。
「まずはお客様に信頼してもらう必要がある。ちゃらんぽらんな店員から物を買おうとは思わないだろ。知識、技術、判断、姿勢。いろんなところで無意識に信頼関係ができていく。ミナガワさんはまだ知識や技術はこれからだから、判断とか姿勢とかが重要になってくるんだ。ネームに新人って入ってるとお客様も分かってくれるから大丈夫」
「姿勢、ですか」
「そう、姿勢。色んな業界でそうだけど、新人さんの方が話しやすかったり丁寧に接してくれたりっていうのはよくあることで、お客さんも心を開いてくれやすいんだよ。だからつけこむってわけではなくて、親しくなることでその人に必要なサービスをお勧めしやすくなるから成約率は上がってその後の解約率は下がる」
慌ててポケットからメモ帳を取り出して書き記していると言葉を止めてくれた。筆が落ち着いたのを見計らって話を続けてくれる。
「ひとつひとつの応対への全力投球の姿勢。これすごい武器なんだよ、今の俺にはできない。どこかで効率考えちゃうからね」
「いずれは効率高めないといけないんでしょうけど、今の私が考えたところでとも思いますし、まずは全力投球ですね」
「そう。俺根性論嫌いだからスキルとして紹介したいんだけど、『そのお客様のため』の応対であることを考えて事前に準備してほしい。ご用件がメンテナンスだったら契約状況や機体の利用年数からどこにガタがきてそうか考える。大きく分けて外部か内部か。外部ならパーツ取り替え、内部ならセルフメンテナンスオプションの紹介ができそうだな、みたいな」
なるほど、しか言えずメモに徹する。マエハラさんは一方的に喋っているからか手持ち無沙汰なのか少しネクタイを緩めた。
「慣れたら何をお勧めするか事前に決めていてもいいけど、当面は準備して絞るだけでいい。先輩スタッフと一緒に考えたら楽かもな。あとは応対中に信頼関係を築いて、困っているところを浮き彫りにできたら商材を改善案として提案すればいい。契約するかどうかはお客様の決めることだからまずは提案数を増やすこと」
「はい。応対前の準備、信頼関係、改善案としてのご提案、ですね」
「そう。信頼関係の築き方もいろいろあるけど、『そのお客様のため』って視点だとまずは呼びかけからかな。ミナガワさんはお客様に『お客様は〜』って呼びかけてるよね、それよりは『ミナガワ様は〜』みたいに名前で呼んだ方が対話は深まりやすいと思うな」
はー、と思わずため息が漏れた。たしかに無意識でそう呼んでいた。お客様ひとりひとりのことをしっかり見る余裕がなかった。
「まずはこんなもんかな、気になるところある?」
メモを読み返して顔を上げる。大きな目が試すようにこちらを見ていた。新人として甘やかしてもらってきた。まだ早いと言われつつも無理にお願いしたのはこちらだ。 昨日私の申し出を断ったマエハラさんは顎に手をあてていた。彼は自分のことを思い出していたのではなく、考えていたのだ。私がいつ販売実績を意識すべきかを。
「すみません、私にはまだ早いっておっしゃってたのに教えてくださってありがとうございます」
マエハラさんは返事をしなかった。彼の新人時代に何があったのかは知らないが、前の店舗で何かトラブルがあったとは噂で聞いていた。
少しの沈黙のあと、彼はふーっと息を吐いて軽く伸びをした。
「まぁ、こういうのって一度覚えたらずっと使えるからな。例えば入庫とかさ、覚えること増えるからまだ言わなかったけど、パーツごとに数字の羅列が決まってるんだよ。最初の二桁は国コードで固定だし、次の六桁は機体の種類だからここまではダンボール単位で同じ。家事手伝いアンドロイドのHO-03だと六桁が118503で固定。で、そこを覚えやすいように語呂合わせとかあったりするんだよ」
「ごろあわせですか」
「『いい箱レミちゃん』みたいなね。ここまでの八桁をまず間違いないか全パーツざっと確認して、残りの部分だけ細かく確認するなら桁数半分になるから楽なんだよ」
可愛い語呂合わせだよな、レミちゃんの箱は段ボール箱だけど。そう付け加えて軽く笑いながら彼は立ち上がる。私も釣られて立ち上がって、無意識のうちに膝の上に置いていた雑巾が床に落ちた。
「無理はしなくていいけど、たしかにやりたいことを我慢するのも無理だもんな。気楽にやっていこう」
「あの、ありがとうございます」
彼はにこっと笑ってブースから出て行った。マエハラさんの考えと判断を押しのけて無理に教わったスキル。私に何が足りなくて、あるいは何が余計でこのスキルを今まで教わることができなかったかは聞き損ねた。続きを教えてもらえるように、まずは今日の内容をしっかり復習しなければ。
「よし、学ぶっ」
誰にも聞こえないように小さな声で思い切り叫んだ。
大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。