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閉鎖循環式ビターチョコレイト
アンドロイドの歪んだ胸部をなぞり表面パネルの分割線を探す。左右非対称か。互換性の低い大きめのパネルだ。修理のとき高くつくんだよな。もう修理でどうにかなる段階ではないけれど。機体の左胸の部分に指を押し込んで無理矢理開くと無情な熱が頬を包む。
短編(およそ1万字)。一気読み版。
先日あげた上下編に若干の編集を加えたものです。
***
忙しくはない。それでも日々の疲労が気持ちを重くする。いつも通りに締めたはずのネクタイが苦しくて指をかけながらバックヤードに戻ると、副店長が受話器を置くところだった。目が合う。この人が何を考えているか分からないのはいつものことだった。
「西店がエネルギーゼリー切れそうらしくて、休憩ついでに持って行ってあげてくれませんか。往復で一時間はかかるから、君が店を出て一時間後に休憩入ったことにしておきます。二時間後に帰っておいで」
えっ、と思わず声が出た。外でゆっくり食事ができる。
「いいんですか」
「たまにはね」
力のない目元で微笑んで副店長が表へ出ていく。エネルギージェルはアンドロイドの基礎消耗品で、エネルギーゼリーは疲れた人間が飲むものだ。副店長はどうやら疲れているらしい。
在庫処理用のパソコンが立ち上がっているのは隣で売り上げ計算をしている先輩のおかげだろう。チェアに座っても彼女はこちらに見向きもしない。繊細に描かれたその横顔はきっと有名な画家が手掛けたんだ、なんて考えながら仕事の質問をする。
「ヒガシノさん、当日出庫って備考がいるんでしたっけ」
「うん、西店は今日イベントでしょ?イベントコードを入れておけば事務課に突っ込まれないと思うけど」
「なるほど。イベントコードって通知に載せてありますよね」
「開催設定に使うだけだから載らないよ、店に問い合わせだね」
「あ、そうなんですね、電話してみます」
他の店に電話するのはかなり億劫だ。社内だろうと何だろうと人間は怖い。店の固定電話の着信履歴を開くと西店と表示される。しょっちゅうやり取りをする近隣店舗だからこそ番号を見る機会がなくて覚えられないまま何年経ったか。
「あ、お疲れさまです、南店マエハラです」
『こんにちは、アマネです~。マエさんが持ってきてくれるんですか?』
呑気に可愛らしい声の後ろはかなりざわついている。ちょっと生意気な同期はメンタルが強いし、これで仕事はしっかりできるのだからなんだか腹が立つ。電話に出てくれたのが彼女で少し安堵した自分がいるのも悔しい。
「うん、俺が持ってくんだけど、当日出庫の履歴に残したいからイベントコード教わっていいかな」
『あー、ちょっと待ってくださいねぇ。本当は今朝届くはずだったんですよゼリー。大雨の影響で遅れてるらしくて』
「ジェルは人間用な」
『え?ジェルは食べちゃだめですよ、おいしくないよ』
「お互い疲れてるな。見つかった?」
『ありました!読み上げますね、98315423、341、あっ間違えた、3はひとつで、あ、ふたつめの3がひとつです、ふふ』
言葉遊びをしながら21桁のコードを聞いて、肩で受話器を支えながらキーボードを叩く。一度出庫処理をすると取り下げができないためモニタに並んだ数字を読み上げて確認してから電話を切った。
ジェルパックを段ボールから紙袋に雑に移す。10パックって結構重たいんだぞ。でも外で休憩できるなら悪くないか。それが厄介事の始まりだった。
社用車を運転するのは好きじゃない。ぶつけたらどうしようとか、ガソリン給油のときは領収書をもらわなきゃとか、小さなあれこれで頭がいっぱいになって気疲れする。
軽くため息をつきながら、次の交差点で歩行者用信号の点滅を見てゆっくりブレーキを踏む。普段ならスピードを上げて抜けていただろう、そうしても問題ないタイミングだった。ここの信号は引っかかると長いのだ。赤が灯ってもう一度ため息。ふと少し先の歩道に視線をやるとバイクが無造作に停められていて、傍でしゃがみ込む青年の周囲で数人が電話をかけている。事故だろうか。青年も意識はあるようだし、出血も見られない。打ち身や骨折がなければいいな、病院にも連絡しているだろうし手伝えることはないか、なんて臆病者の希望的観測を脳内で組み立てていると、歩道側の助手席ドアが開いた。
「ちょうどよかった!」
涙でぐしゃぐしゃの女性の顔がこちらを見ている。助手席のドアを開けた女性は泣いていた。そして笑顔だった。嗚咽を上げながら自身の後方を指差す女性を見ながら、開いた口が塞がらない程度では済まない驚きと恐怖、これは狂気だ。
「はぁ?」
初対面の、自分の倍は生きているだろう相手に出すものではない声が出る。精いっぱいの拒絶のつもりだったが、彼女の感情の出力に世界は傾いた。
ひどい有様だった。先ほどの交差点を左折してすぐ、歩道に緑色が滲んでいる。泣き顔の女性も倒れているアンドロイドに寄り添うことで狂気が薄らぐ、あくまで薄らぐだけで消えはしないけれど、それでもいくらかマシに思えた。あの青年のバイクがここでアンドロイドにぶつかってそのまま少し走り抜けたのだろう。状況を理解したい気持ちと社用車を交差点付近に路駐している焦りでパニックだ。
女性が言葉にならない言葉を並べながらアンドロイドを指差している。近づいて膝をつくと途切れ途切れの合成音声が聞こえた。
「内部温度……ピピ、メモリ影……響ノ恐レ……」
短足胴長が顕著な旧式家庭用アンドロイドだ。胸部が潰れてさらさらとした緑色の液体が流れ出している。凝固しない液体は機体中心部のパーツを冷やす用途のものだ、衝撃で内部が割れてしまったのだろう。腹部も大きくひしゃげて亀裂が入っている。この緑色の液体が無臭なのはかなり初期のもの、一度でもメンテナンスをしていれば誤嚥防止対策済みの液体に交換されているはずで、機体もかなり古い上に手入れもしていないならもう買い替えた方が楽だろうな。
そもそもうちの会社で取り扱っていない型番だ。社用車の側面に描かれたアンドロイド取り扱い店のマークを見て、信号待ちの車のドアを開けるほどの人間が契約先に電話できないわけがない。この会社なら大きいし、レスキューダイヤルもすぐ繋がるだろう。
適当に濁して早く立ち去ろう、と口を開こうとしたとき、女性は言った。
「これでおじいちゃんの写真も取り出せる」
「は?」
「この子しか持ってないの、データの移し方とか、よくわかんないでしょ」
「……は?」
「あなたがいてよかった、本当に」
早くしろ、と大きな声に思わず肩が跳ねた。女性の後ろに中年の男性。配偶者、だろうか。いや、待ってくれ、ちょっと。
狂気だ。
初めて見るでかい機械の仕組みなんか知るか。機械なんてどれも似たようなものだと言うなら、人間も機械も似たようなものだと返してやりたい。みんな何を考えているか分からない。
「あの、データってクラウドに共有とか、IDとパスワードは」
知るか、いいから取り出せよ、とまるでUFOキャッチャーか何かのような物言いで、そんなに簡単なことなら自分でやれよと思いながらも怒号に身体がすくんでいる。
横たわるアンドロイドは小さな声で現状を繰り返している。俺よりよほどしっかりしている。お前もこんな思いをしてきたのか、何年も何年も。
なんで俺が。
もう何を怒鳴られているのか認識できなくなっていた。泣いているのか笑っているのかわからない女性がアンドロイドの手を握りしめている。
温度が上昇しているのは排熱と冷却に不具合が起きているからで、メモリはどのメーカーもおそらく胸部に埋め込んでいるパーツに保存するようにしているだろう。
バイクに乗っていた青年は大丈夫だろうか。彼のところに救急車かパトカーがくればこの夫婦にも気づいてくれる、第三者の存在があれば狂気も薄らぐ。どこまで薄めたってこんなの狂ってる。
女性に離れてもらって、アンドロイドの歪んだ胸部をなぞり表面パネルの分割線を探す。左右非対称か。互換性の低い大きめのパネルだ。修理のとき高くつくんだよな。もう修理でどうにかなる段階ではないけれど。機体の左胸の部分に指を押し込んで無理矢理開くと無情な熱が頬を包む。
これは、もうだめだ。
温度の上昇で内部メモリが焼けそうだというこいつの主張が正しいなら、もう手遅れだった。
「どうなるか分かりませんが、電源を無理矢理落とすしかないです。データが残るか消えるかは半々くらいかと」
データを消すな、と男は怒鳴った。いや、そんな、無茶な。女がそれでいいから早くして、と泣く。こんな感情的な人間を相手に同意書もなくデータが消し飛ぶかもしれない選択肢を取るなんて、なんでこんなことになったんだ。どうして車の扉をロックしなかったんだろう。たったひとつのボタンを押すだけでこんな窮地に陥らず済んだのに。
緑色の水溜まりができているアンドロイドの首元に手を入れる。後頭部側にはスイッチの感触がない。つけ根側か?損傷なのか機体の仕様なのかスイッチなのか、触れるだけでは小さな段差の理由がわからなくてのぞき込む。側頭部が地面について、緑が毛先を掴んだ。機体を左手で浮かせながら背中のあたりまで探ると、肩甲骨の間にそれらしきものがある。スライド式カバーを外してスイッチを押し込み永遠のような11秒。
カウントが不安で指先を押し込んだまま顔を上げると、アンドロイドの光る眼球がこちらを見た。
「お、客様ノ設定でハ、非常時ロッ……ロック、メモリ優先」
「くそ!なんでそんな設定かけたんだ!」
軽傷でクラウドに同期をかけているなら確かに有効だ、不慮の事故で電源が落ちてしまうのを防いでデータをバックアップしてくれることだろう、だがこの状況では。この設定をするならデータ保存に関するセットアップまでやれ、この機体を売った店員を今すぐここに呼び出したい、サポート料をケチったなら自分で調べてちゃんと設定してくれ、もう誰でもいいから助けてくれ。
青年には大人が駆け寄っていたのに、ここには誰もこない。アンドロイドの破損なんて誰も気には留めない。俺の姿は道行く人々の目にどのように映っているだろう。
開いた胸部の奥から、とぷっと緑が溢れた。チューブのようなパーツが折れている。電源を入れたまま、液体が溢れる内部を触れるなんて馬鹿のやることだ。せめて臨時メンテナンスモードに切り替えられたら。それには認証がいる。この機体の型番はうちの会社で取り扱っていないが、同じメーカーの違う型番なら取り扱っているから、自分のコードでも干渉できるかもしれない。
汚れた手でズボンのポケットから携帯電話を取り出す。クリーニングに出したばかりのスーツなのに。機体には触れず待っているよう夫婦へジェスチャーし社用車に戻りながら電話をかけた先はジェルを持っていくはずだった西店の内線だった。
『お疲れ様です、西店アマネです」
「アマネ、良かった、マエハラです、今から受領書のコードを読み上げるから入庫処理してくれ」後部座席の紙袋からA4の書類を取り出す。
『あ、マエさん、え、入庫?』
「3875269」
『わ、待って、えっと』
「3875269‐756332‐……」
『分かった、処理すすめるけどどうしたの、すぐ店に戻らなきゃなら途中まで取りに行くよ』
「いや、入庫終わったら俺のアンドロイドに紐づけて購入処理して、4パックを5分後に」
『え、なにそれ』気配が曇った。正気を疑う人間の声音だ、最近聞いた気がする、自分の声で。
「俺の情報分かるだろ、暗証番号は73519746だから」
『待ってそれ口頭で言っていいやつじゃないよ』
「ごめん、頼んだ」気を許した同期の引き留める声を無視して電話を切った。
次は自分の店の内線を鳴らす。重たい紙袋を持って社用車の扉を投げやりに閉める。
『お疲れさま』
聞きなれた先輩の声。自分の携帯番号が登録されていることに驚きつつも、さっき聞いたばかりの澄んだ声になんだか涙が出そうだった。
「ヒガシノさん、すみません、俺の退勤処理してもらえませんか」
『……どういうこと?』
「店にコード残してたら使えないから、あ、3分待ってください、入庫処理終わらないとジェルが浮いちゃうので」
『ちょっと、どうしたの?泣いてるの?』
「本当にすみません、お願いします」
先輩の電話を切るなんて。次会うときどんな顔をすればいいだろう。でも時間がない。毎秒上がる温度が機械の思い出を焼いてしまう前に。紙袋を緑色の地面に落とし、中からジェルパックをひとつ取り出す。こうして怪我をした人型の機械とセットで視界に入れるとまるで点滴のパックだ。サイズはいい感じだが中身が緑色で、決して人間は救わないという強い意志を感じる。バーコードをアンドロイドの掌センサに読み込ませるがアクティブでないと告げる電子音。
焦りを隠さず毎秒読み込ませる。夫婦はいつの間にか静かになっていた。アクティブでありません、に続く、非対応商品です、の声。入庫処理が終わったのだ。それにしてもやっぱりダメか。このジェルは最近のセルフメンテナンス対応機体用で価格が安いかわりに熱で凝固する。千回ほど全身を循環して凝固したジェルを体外に排出し、新しいジェルを補給することで熱を逃がすシステムだ。この機体は非対応か。それでもやるしかない。
次は自分の掌をアンドロイドのセンサにかざす。コードが現在地にありません、という返事。スーツのジャケットを脱ぐと昼間なのに少し肌寒い。冬だったら夫婦も凍えてくれたのに。あと二か月遅ければアンドロイドも助かったかもしれない。
袖を捲りながら認証を続ける。数度目でようやく、コードが未登録です、という予想通りの返事。退勤してコードが開いた。掌センサ上のテンキーでメーカー指定のワードを入れる。所持者でない、またはIDやパスワードがわからない場合のクラウド同期指示用ワードだ。メーカー、作られた時期、機体の用途など、それぞれ設定は違うため普段の営業中は毎回調べるのだが日頃の行いが良いのか一発で機体に指示が通ったようだ。いざというときの人間の脳はどうやらなかなかやるらしい。バックアップ開始の合成音声が流れる。
よし、あとは同期が終わるまでこいつを生かす。
「バックアアア、ップ、進捗2%」
歪んだ合成音声が気持ちを焦らせる。黙っていてくれ、と思いつつも毎秒進捗を教えてほしくもある。それにしても通信部品がやられていないのは不幸中の幸いだった。10分もあればほとんどのデータを同期できるだろうから、その間どうにかして機体内の熱をどうにかしなければならない。開いた胸部を観察する。頭部や腕にセンサー、転倒防止も兼ねて重量のある大型部品は全て腹部に固まっているようだ。腹部はもう一枚大きめのカバーで覆われており、あちこちから線が集まっている。人間の腸にあたる空間を埋める腹部部品のカバーに触れると上部は熱いが、下部の温度は問題なさそうだ。
腹部にデータ処理システム、胸部にメモリがあるのか。腹部にはシステムが固まっているから専用の冷却システムがあるに違いない。こちらはなんとか持ちそうだ。問題は胸部メモリ。ここが焼ければおしまいだ。先ほど見かけたチューブの破損が気になる。
メーカー指定のワードを入力した時点で臨時メンテナンスモードに切り替わっているから、稼働は最小限になっている。とは言え絶縁もせず機体の内部に手を入れるほど勇敢にも馬鹿にもなれない。最初に開いた胸部パネルの内側、防水用のゴムパッキンを剥がす。胸部にびっしり詰まっている色彩豊かなコードにゴムを引っかけて、できるだけ自分の手元に近い左胸部に空間を作るよう左右にかき分け、胸部奥が見えてきた。
黒い球体から腹部パーツの裏側に、指一本分ほどの太さのパイプが伸びている。おそらく冷却板があるのだろう。そしてそのパイプが割れて、緑色の液体が溢れている。メモリパーツを黒いカバーで覆って、パーツとカバーの間に液体を循環させて熱を拾い、冷却板へ逃がしているのか。
閉鎖循環式で、冷却板が正常に作動しているのかは確認できない。
大丈夫、まだ予想の範囲内だ。
破損しているチューブが厄介だ。ネクタイを引き抜いて破損部に巻き付け、思いきり引っ張るとうまく割れた。断面から緑色のジェルが飛び散る。
冷却が追い付いていない上に閉鎖循環式なのに循環するものが流れ出ていることで役に立っていないチューブ、こいつをどうにかして活かさなければ。できるだけ重力に逆らわないようにしたいから、背面側だ。機体の詳細が分からない以上他の冷却システムに繋ぐなんてできない、そもそも工具がひとつもない。機体の外から腹部側面を観察する。脇の近くにも分割線がある。ここか。
指を入れて無理矢理パネルを引きはがす。隣から悲鳴が聞こえた気がする、もう気にしている場合じゃない。胸部の太い骨組みが露わになり、その中に先ほどかき分けたコード。よし、これで。
さっき使ったゴムパッキンとネクタイを揃えてチューブに何重にも巻き付ける。いけるか。先端が脇の方向へ向くよう引っ張るが、漏れ出た液体のせいでネクタイが抜けてしまう。もう一度巻き付け、また抜ける。生唾を飲む音が大きく聞こえた。ゴムがきちんと滑り止めになるよう気をつけながら丁寧に巻き付け、ネクタイの上から両手でチューブを掴んだ。熱が掌を焼く。声にならない叫びがうるさい。熱い。力をこめ続けるとゆっくりチューブが変形していく。ゆっくり、ゆっくり、もう少し。コードと骨組みの隙間を通し、チューブの先端が外部に出た。ばっと手を放し反動で尻餅をつく。よし、よし、もう少し。
掌のひりつきを無視してシャツの胸ポケットからボールペンを引き抜く。異動するときに前の店舗の先輩がくれた、名入りのものだ。黒いカバーをペン先で叩く。どのくらいだ。メモリパーツの大きさが分からない。旧式は基本的に部品の小型化が進んでいないから、メモリは大きめ、液体は少なめで回転数多めが妥当なところか。カバーとメモリの隙間はそこまでないなら力加減を気を付けないと。
ボールペンで黒いカバーの表面を削るように刺す。熱のせいかプラスチックが弱くなっているようで、数度試すと簡単に穴が開いた。緑色の非凝固ジェルが溢れてくる、成功だ。
店から持ってきたジェルパックの端を噛みちぎる。ハサミなんてない。昔駄菓子屋でアイスを食べるときもこんなことをしたな、なんてよぎるけれど誤嚥防止加工のせいで酷い苦みが口の中に広がった。唾液が滲んでくる。嫌な苦みだ。ボールペンで開けた穴にビニルパックの先端を押し込み、ぐっと力を入れて絞る。
無理に開けた穴からジェル漏れてしまう。もうどうにでもなれ、とビニルを指で押し込むとジェルがうまく流れていくようになった、ビニルも歪んでいたのだろう。
あまりにメモリ周辺が熱されているのか、注入した端からジェルが固まっていく。パックを両手で必死に絞る。圧をかけ続けないと、内部で完全に凝固してしまったら熱を逃がせなくなる。しばらくジェルを流し込んでいると膝元に不快な温もり。チューブの先端から緑色の餅が落ちてきた。成功だ。
あとはこれを維持すればこれ以上温度が上がることはないだろう、最新ジェルの吸熱能力をなめるなよ旧式アンドロイド。
「ババババックアップ、進捗6%」
「……嘘だろ」
まさかここまで遅いなんて。あとどのくらいかかるんだ。いや、大丈夫、もう山場は乗り越えた。弱気になりそうな自分に言い聞かせながら、既に感覚が失われつつある両手にもう一度力を込めた。
シャットダウンした機体を前に放心していると、大きな掌が背中を叩いた。
「マエハラくん、よくやったな、私の指示に従ってくれてありがとう」
聞いたことのある明快な太い声、見上げると向かうはずだった西店の副店長だった。何を言っているのかは分からない。そもそもなぜここに?目が合った一瞬、にかっと笑顔を残して夫婦と会話を始める。
「こんにちは、今回はメンテナンスイベントに参加していただきありがとうございます!緊急事態でしたので会場外で対応いたしましたが、規約上こちらの書類にサインを……、その間に私が機体レスキューに連絡を繋げますのでご安心ください」
なんだ、どうなっているんだ。おどおどしていると乱暴に腕を引き上げられる。西店のエース、イガラシさんだ。普段愛想のいい男性だが、目が怒っている。
「ほら、マエハラ、行くぞ」
自分で路駐した社用車の向こう側に同じ車がもう一台。ふたりで乗り合わせてきたのか。イガラシさんが助手席の扉を開けてくれる。苛立ちながらも丁寧なのは人の良さだ、手に力が入らないから助かった。助手席にはごみ袋が敷かれている。身体が重いなと思ったらスーツの膝下はすっかり緑を吸っていて、社用車を汚さずに済むのはありがたい。
なにひとつ説明も引き継ぎもしないままその場を後にしてしまった。車が動き出して、沈黙が皮膚を刺す。数分後、先に口を開いたのはイガラシさんだった。
「なんで手火傷してるんだ」
苛立ちを隠さない声。一言目にそれを持ってくるなんてずるい。あまりに、ずるい。
「......機体の内部に手突っ込みました」
「あの状態の、初見の機体にか?」
「熱でメモリがダメになりそうだったんです、シャットダウンも出来なくて。閉鎖循環式の冷却システムが破損していたから、バックアップが終わるまで人力でジェルを注入して誤魔化さないといけなくて」
「よくやるよ。ひとりでやることじゃないよな」
「......すみません」
「お前な、ツキちゃんに感謝しろよ」
ヒガシノさんの下の名前だ。そういえばイガラシさんは同期だったっけ。ふたりとも優秀だからその代のツートップとか双璧とか美男美女とか周囲が好き勝手呼んでいるのを聞いたことがある。
「……ヒガシノさんの電話、俺一方的に切っちゃって」
「ツキちゃんがうちの店へのヘルプコードを登録してくれたんだよ。今お前はうちの店でイベントの手伝いをしてることになってる」
「え?ヘルプ申請って二週間前までにしないと通らないんじゃ」
「申請手順を踏めばな。お前んとこの副店長が申請忘れてたことにして無理矢理登録したらしい。たった数分でよくやるよ」
すっと血の気が引いて、こめかみが冷たくなる。業務は登録した場所でしか行えないのがランクAの規定だ。違反すれば一発で業務に携われなくなる。咄嗟の判断とは言え俺は何をしようとしていたんだ、ヒガシノさんが俺の言う通り退勤処理をしていればクビになっていてもおかしくない。
「ヒガシノさんの電話でおふたりが来てくれたんですか」
「あぁ、クソ忙しいときに主力ふたりでな。お前のコード作業履歴から場所まで特定した上で、ふたり以上で向かってほしいって連絡だった、さすがだよな」
「ヘルプ登録のイベントコードを確認する前に、もう場所まで調べてたんですか」
いや、それだと辻褄が合わない。破損した他社アンドロイドにログインするには自分のコードが店から抜ける必要があったから、退勤処理の代わりにイベントコードを発行してもらった後に場所がばれたはずだ。
イベントコードは全店共有の通知ページにも載らず、開催店舗しか知らない。そのことを教えてくれたのはヒガシノさんだ。ジェルの出庫時に備考として入力はしたが、出庫店舗側では当日中は処理中扱いになり確認できないはず。どういうことだ。
「偶然覚えてたらしい」
「イベントコードを?21桁ですよ?」
「覚えてたんだろうよ」
イガラシさんは真っすぐ進行方向から視線を外さないまま、温度のない声で答えた。俺が同期のアマネに電話でイベントコードを聞いて復唱した、それを聞いて暗記していたのか。何もなければ二度と触れることのない数字の羅列を。
「お前もすごいけどな、ツキちゃんの機転と記憶力、彼女も英雄だよ」
うちのアマネもやる子だけど彼女にはまだ敵わないな、と柔らかい声。
「アマネにも迷惑をかけてしまいました」
「電話を切られたあと訳も分からず入庫して、言われた通りに数分待って、マエハラのヘルプコードが発行されてるのに気づいてすぐ相談してくれたよ。そしたらツキちゃんから電話が来て、未登録の他社機体へのログイン履歴で大体の事情が分かった。ジェルはお前の個人決済じゃなくてうちの店の経費で落としてある、そうしないとイベントで使ったことにならないからな」
開いた口が塞がらない。ひとりで戦っているつもりが散々助けられていたなんて。そしてイベントは他社利用者を引き込むための無料メンテナンスイベントだったのか。エネルギージェルが足りなくなるのも頷ける。
「ふたりがきちんと考えて連携取ってくれたからなんとかすぐ来れたものの、あのな、ああいうときはちゃんと上に相談しろよ。自分で責任取れないことするな」
「すみませんでした。おっしゃる通りです」
「今回はお前んとこのムロヤ副店長の申請漏れと、うちの原田副店長のエリア外業務指示の二点でそれぞれ始末書だ。奇跡的に始末書で済んだんだ。あとうちの店のメンバーもな、今頃忙しすぎて白目剥いてるだろうな。まぁ、あいつらはいい気味だ」
「え?」
俺たちいっつも業務量多いしな、たまには仕返しだ。おどけた言葉を吐きながら先輩の横顔がにやりといたずらっ子のように笑った。それでもこちらを見ないのは真面目な性格の現れだろう。
「まずは病院行くぞ。イベント業務中の扱いだから退勤できないし、ふたりでドライブしようぜ。マエハラは魚と肉どっちが好き?」
「えっと、魚、ですかね」
「じゃあ病院終わったら海鮮丼だな。領収切っていいよってどさくさに紛れて許可もらったんだ。その前にお前んちに寄って着替えるか。クリーニング代も経費で落とそう。マエハラってチョコ好きだったよな、好きなの箱買いしていいよ、これは俺のおごりね」
なんだか力が抜けて、緊張が解けて、一気に疲れと苛立ちと悲しみが押し寄せてきた。なんで訳の分からない人たちに捕まったんだろう。知らない機体のバックアップをよく成功させた。データが本当に残っているかは分からないけど、あれ以上のことはあの場ではできなかった。怒鳴られて怖かった。ひとりで、やるしかなかった。大きなトラブルになる気配を感じながらも、その場から逃げ出す術を思いつかなかった。少し震える手で目元を覆う。
「がんばったな。本当に、よくやったよ」
返事をしたかったけれど声が上擦ってしまいそうで、顔を隠し唇を強く噛んで小さく頷く。口の中にはまだジェルの苦みが残っていて、甘いチョコレートが待ち遠しかった。
大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。