この灰は地図だったものです
学びとは自分の地図を広げていくものだと教えてくれたのは誰だったか。
賢くなって世の中や自分についての理解度が深まれば、容易く生きられる?
知識をつけて、思考力をつけて、そうして広げた地図は何を教えてくれる?
開いた地図の大きさに打ちひしがれて、真っ白な地図に怒りを覚えて、それでも足を休めるなと叱咤されて。
この世界の広さを理解できないほど愚かなら自分の小ささに怯えずに済んだのか。
この世界の選択肢の多さに気付けぬほどに視野が狭ければ迷わず真っ直ぐに歩けたのか。
答えが欲しくて学んだのに、学べば学ぶほど全てが分からなくなる。
今日は午後授業がないので、秋人と昼食を取った後談話スペースでひとり自習をしていた。
窓際の席で電子辞書を片手に文献を読み進めていく。
周囲のざわつきの後ろで微かに聞こえる雨音が夏の終わりを告げていた。
「慶じゃん!なにしてんの」
後ろから溌剌とした声がして振り返ると、真っ青な髪の先輩が立っていた。
二階堂先輩は漢文学科の三年生、ひとつ上の先輩だ。
会う度に髪色が変わる男の先輩、というと怖そうだがとても面倒見が良く、学年も学科も違うのに度々お世話になっている。
「おつかれさまです。課題してますよ」
「えらいえらい。でも浮かない顔だねぇ。いつも嬉々として学んでんのに」
机に手をついてのぞきこんでくる。
にやにやしておどけた風を装い心配してくれる、この人はそういう優しい人だ。
「うーん。二階堂先輩、ゴキブリとお化けとどちらが怖いですか」
「どっちも怖いなー、触れないし苦手だ。慶は?」
苦手をさらけ出しながら笑えてしまう、おれはそんな二階堂先輩の強さが少し羨ましくて、強く憧れている。
伝えるとうるさいだろうから言わないけれど。
「僕はお化けですかね」
「なんで?」
「ゴキブリ叩き潰せますけど、お化けは得体が知れないじゃないですか」
「えっゴキブリ叩き潰すのかよ、紙コップでキャッチして底に穴開けてそこから殺虫剤吹きこめよ」
「比喩です」
「分かってますー」
けたけた笑いながら二階堂先輩は隣の席に腰かけた。
少し値がはるスポーツブランドのリュックを膝の上に抱える姿はお行儀がいい。
「じゃあ、広げた地図が真っ白だったらどうします?」
「焼くだろうな、暖をとる」
予想外の回答に思考が鈍り、ふと時が止まった。
「はは、それ、めっちゃ強いですね」
「だって何かを叩き潰したいんだろ?丸めて武器にしてもいいけど、地図にすがるほど飢えて凍えてるんだもんな。それなら焼く」
この人のこういうところだ。
そう、こういうところだ。
聡くて優しい。
「何を叩き潰したいの」
「不安、ですかね」
「潰さなくていいだろ」
「二階堂先輩もありますか」
「あるよ?不安を感じない方が怖いだろ」
少し俯いて湿気でへたった髪をいじっている先輩の表情は見えないが、声のトーンが明るいので嫌がられてはなさそうだ。
この手の話題は人やタイミングを選ぶ。
「そういうとき、どう対処しますか?」
「んー、不安の種類によるよな。先が見えない不安なら帰れる場所が欲しい、かな。暖をとりたい。お、ゆっくん来た」
談話スペースの入り口からこちらに歩いてくるのは二階堂先輩の友達、行橋先輩だ。
「行橋先輩おつかれさまです」
「慶くんおつかれさま。遥、教授が呼んでた。ゼミの進捗いいから範囲広げるって」
「うえーまじか、あと1時間なのに。ごめん慶、続きは今度な!ゆっくん話きいてやってくれよ」
行橋先輩の肩をとん、と叩く。
無表情な行橋先輩も少し驚いて見えた。
「え、何の話してたの」
「んー、お前の話!じゃ!」
「二階堂先輩、ありがとうございました!」
鮮烈な青髪はリュックをかるって急ぎ足で去っていった。
なるほど。二階堂先輩と行橋先輩は本当に羨ましい関係だ。
「......えっと。何かあればおれでよければ聞くけど」
行橋先輩はトートバッグを机に下ろして、二階堂先輩の座っていた席に座る。
「さっき二階堂先輩にもした質問なんですけど、広げた地図が真っ白だったらどうしますか」
うん、そうだな。とあごに手を添えて考えてくれる。
即答だった二階堂先輩と、じっくり考えてくれる行橋先輩。
唐突な話題だし、笑われてもいい質問だと自覚はあるが真摯に向き合ってくれるこのふたりは、正反対で、根本的にそっくりだ。
「おれはいろんな人の地図を見せてもらうかもしれないな。自分の地図だけ白いのか、みんなの地図も白いのか。それでも話は変わってくる」
「それはすごく有効そうです」
「誰かの地図も参考にはなるし、歩いてる誰かの背中を押すのも立派な歩き方だと思う」
「うわー、それは新たな知見です」
はぁー、と思わず感嘆のため息をついてしまった。
誰かの力になる生き方。
「もう一つ質問していいですか。不安なときどうしてますか」
「自分を自分たらしめるものに立ち返るかな。好きな本、音楽、友人」
「行橋先輩のアドバイス、的確すぎます」
両手で眼鏡の位置を直す先輩は少し照れたのだろうか。
無表情で寡黙で最初は苦手意識があったが、人間らしくて温かみがある。
「アドバイスというか、おれの場合の話だから慶くんに有用かは分からないけどね。だから慶くんも相談じゃなくて質問したんだろ」
「そうでした。自分で考えなきゃですね」
「......考えるのは一人じゃなくていいと思うけど。ただ、自分に合った方法かどうかは自分にしか分からないから」
「トライアンドエラーですね」
「タッチアンドゴーだな」
ふ、と微笑んでくれた先輩を見て、やんちゃな青髪の先輩が帰る場所として頼る理由が改めてわかった気がする。
自分の地図はとりあえず焼こう。
誰かの地図はすこし見せてもらおう。
そして今度は誰かの帰る場所になろう。
雨のせいか少し冷めていた胸の底が少し熱くなった。
***
「クランベリー」より
大学二年の慶と三年の二階堂、行橋
すこし長くなりました。閲覧ありがとうございます。
ライオンキングを観てきました。
夏休みだからかお子さんも多く、興奮が伝わってきていつにもまして楽しい映画鑑賞でした。
作品ももちろん圧倒的完成度でした。
ハクナマタタ。
大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。