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価値のない価値感の話

 引越す前は暖地だったので、そろそろ桜が咲き始めているのだろう。
とは言っても田舎なので道路脇の斜面などに生えているのは山桜が多かった。たぶん私は自然に咲いている花が好きだ。
 自己肯定感云々の話は横に置いておいて、何故に自分が好きか嫌いかという単純な問題の答えに「たぶん」という単語が付いてしまうか。

たぶん

それは、彼が花に興味がないからだと思う。自分の中で物を判断する時の基準が彼の気持ちベースになってしまっている。これが「依存」なのか違うものなのかを突き止めたい気持ちもあるが、わかったらからどうなるってものでも無い気がする。
 単純な例だと〈夕飯何にしようかな〉と考えた時に悩むのは食べてくれる相手が好きな物を作りたいからだと思う。もちろんある材料で簡単になど、その時の制約は別にあるとしてもという話だ。だから〈今日の夕飯は私ひとり〉となるととたんに手抜き上等!でササッと済ませられる。
 私がシュークリームやクロワッサンを焼けるのも彼がそれが大好きだからであり、自分がそれをどこまで好きか?と聞かれたら「たぶん好き」と答える。

価値感

 そんなこんなで一事が万事〈彼が好きかどうか〉〈彼に必要な情報か〉という選択肢で仕事をして生活をしていたのに、彼が亡くなると私の価値感の価値が無くなってしまっている。そして、その価値の無くなった価値感だけが私の中に残っているのである。

 この〈彼が好きかどうか〉という部分をどうにかしないとおちおち買い物もしていられない。よりによって食品製造業というものはキッチンツール大好きな職場である。生活に根ざしすぎている。「好きそうだな」と感じた瞬間に泣くのを我慢しはじめて、買うのを諦める。

一体何を乗り越えればいいのか

 買うのを諦めるのは、買う=彼の死を乗り越えていないような気がするからで、じゃあ〈買わない〉のは乗り越えたのか?と考えるとちっとも乗り越えられていない。
 よく言う「~の死を乗り越えて」という表現は、何を乗り越えているんだろう?私の場合は何ができるようになれば乗り越えたことになるのだろう。
そもそも、乗り越えるべきものなのだろうか?

まぁ...、死別したあとにご縁に恵まれて再婚された方などは乗り越えていらっしゃるのだと思う。得意料理は◯◯です!という男性がいたら、今なら「彼も得意だったんですよ」と答えてしまいそうだし、半額になっている高いステーキを2枚買うか、1枚買うかと考えれば1枚買ってはんぶんこして食べるのが幸せに感じる。ココらへんの価値感を一新しないと乗り越えていないということだろうか。

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