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言わないでなんて言わないで。

久しぶりに温泉でゆっくりしようと、以前知人に教えてもらった宿を取り、湯河原まで車で2時間ドライブをした。天気は良く、相変わらず横浜町田から海老名辺りは渋滞している。途中のサービスエリアでそばを食べ、気持ちよく走った。

湯河原ってここで右に曲がって山向かうのか。熱海へはよく行くけど、湯河原は初めてだったかな。車は気持ちよく進んで雰囲気が温泉街、情緒ある感じになったそのまた先の、小高い山の上にあるのがなぜだか嬉しい、今夜の宿に到着した。予想通りの趣ある佇まい。午後の木漏れ日があたりに充満している。出迎えを受けながら、駐車場の脇の手入れの行き届いた緑と、そこでなにかを摘んでいる年配の女性の後ろ姿が、西にほんの少し傾いた光を受けてキラキラ輝いているのを見て、いい場所だなと思った。

部屋に案内してもらい、荷物をおいて、車に忘れ物をしたことに気づいた。座る間もなく再び駐車場へ出ると、車の隣でさっきの年配の女性がまだなにか摘んでいる。光の中の美しい風景だったので、なんとなくその人に「それは食べられるんですか?」と話しかけた。振り返ったその人はとても優しそうな小さなおばあちゃんだった。おばあちゃんは、僕の予想より少し元気に「草むしり!雑草よ!雑草!」と笑った。「なんだ草むしりか!ははは!」と僕も笑う。なんか良い。
おばあちゃんは、地面を踏み、片手を上から下に動かすジェスチャーで、「こーら!笑」と僕にツッコミを入れてきた。なんてノリの良いおばあちゃんなんだ。「食べられるもんか!こーら!笑」。何度も「こーら!」とそのジェスチャーでツッコミを繰り返すおばあちゃんと僕は、ふたりで顔を見合わせて笑った。初夏の晴れた午後、温泉宿の入口で起きたほんの一瞬の些細なやり取りに、僕はなぜかとても癒されたのだった。おばあちゃんはそのまま勝手口らしき方向に歩いて去って行った。

気分良く車のトランクから荷物を探し、もう一度車の鍵を締め部屋に戻ろうとすると、おばあちゃんが僕の方へ戻って来た。ほのぼのとした気持ちの続き、もう一度僕がおばあちゃんに笑いかけるものの、なぜかおばあちゃんはもう笑っていない。全く笑わない。


「あのぅ、すみませんでした。私、お客様だと知らずに、厨房の若い板前さんにそっくりだったので、てっきり勘違いをして、私、お客様に向かって、こーら!なんて失礼なことを。。。」とひどく焦っている。
「はっはっは!そんなそんな!全然お気になさらず!楽しくお話できたのに!」と言う僕。
「本当にすみません。社長に言わないでください。お願いします。」とおばあちゃん。

つい1分前までのせっかくの癒やしの時間が、急にもやっとし始めた。
え。社長そんなに怖いんかな。立派な宿でおばあちゃん従業員さんが楽しくほのぼの仕事をされていて、なんかいいなぁって思ったのにな。おばあちゃんの口から聞きたくない言葉ランキング第一位「社長に言わないで」なのにな。
僕は「ほんと気にしないでください!ぜんぜん!」と念を押し、お辞儀をしてささっと部屋に戻った。

鶯の鳴く湯に浸かり 、
言わないでなんて言わないでおばあちゃん。。。
と思ったのだった。

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