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僕らの時代を

「青二才」

 僕は常々、「青二才」という言葉が好きだと言っている。青二才は、一般的にはマイナスな意味だ。若さを卑下するときに使う。人を馬鹿にするとき、あるいは自らを下げて謙遜の意を表す場合もある。だが、私は青二才であることを誇りに思っていたい。若さゆえの無謀さは、宝である。サカナクションの「Aoi」という曲では、青さを「絶高の世代」と表現している。でも僕は、ここまでして青さに執着する自分を疑問に思う。もう青さなど失ってしまっているから、青さを追い求めるのかもしれない。今日もどこかで、僕は僕の中に青さを探し、疲弊しているのだろう。

「僕らの時代」

 世間は良く、「これからは若者の時代だ」という。その通りだと思う。生まれて間もない僕らの脳が柔らかいうちに、執着する過去と経験が少ないうちに、世界が作り替えられるのを望んでいる(別にそうじゃないかも)。僕も、何か世間に影響を及ぼしたいと思っている。及ぼせるような存在だと信じている。何たる傲慢さだろう。でも、その傲慢さが僕を進ませるガソリンだったはずだ。世界には老若男女幅広い人々がいるのに、若者だけが「時代」だという。世間は表面上そう言うし、僕もそう思ってる。もし読んでいるあなたが若者であれば、あなたもそうかもしれない。「僕らの時代」と呼べるほどの傲慢さ、僕らだけが作っていけると思い込める傲慢さ、抱えきれないほど持つべきじゃないけど、でもそれって僕の、あるいは僕らの根底にあるものだろう。

「最近、夏を感じた」

 僕はここ数年季節感覚に乏しかったので、最近夏祭りに触れるたびに、ああ、僕が戻ってきていると感じる。感受性の方向は、優しさに振り切っていたい。そう思う。いいことだ。今年は優しい夏になるだろう。久石譲の「summer」を何度も聞いて、ありもしない夏に儚さを感じて、現実の夏に少し寂しさを安堵感を覚える。クーラーの風に孤独感を感じて、入道雲とヒコーキになんでもない安心感を感じる。夏ってそう言うもんだろう。ああ、僕がいる。自転車にでも乗って、夏を心身で感じよう。僕がそこにいるのだから。

「過去のお話。」

 僕は小学校1~2年にかけていじめられていた。その頃の性格が染み付いているのか、今でもいじられキャラだ。特に小学校の頃はその傾向が強かった。でも僕は幸い、勉強ができた。色んな仕事も引き受け、やり遂げた。でも一部は、僕のそういうことを「優等生」といじってきた。決まって腕っぷしの強い連中が、小学校の「世間」ってやつを作ってた。言論は勝てなかった。先生はこういった。「君は職員室の中でも一目置かれてる。」ああ、僕は先生に評価されるために優等生になりきっているとみんなから言われていたのかもしれない。でも僕はそう思って色んな仕事をやっていたわけじゃない。周りを変えようと必死だった。情熱に溢れていた。

 小学校の頃の思い出はこれだけじゃないし、小学校の頃の過去を今でもよい思い出だと思ってる。その頃大事にしていた感情や思い出、儚いと分かっていた日々、親友にも巡り会えたし、支えてくれる他者も大勢いた。何より、自分が頑張れていた。また、僕も幾重にかけて間違いを犯した。僕が他者にかけた迷惑もある。あと、同級生がからかってくるのは許せた。なぜかって、それは何年も一緒の時間を過ごしてきてるから、僕の性格や行動も分かっているし、逆も然りだからだ。今でも同級生が元気に過ごしていることを願っている。でも、下級生のなかでいつもいじってきたやつは、そのいじり方も陰湿だったから、今でも負の思い出として残ってる。そいつらのインスタを偶然見かけた時、悔しくなった。そいつらはたいてい、普通の高校に行き、友達に恵まれ、楽しそうな生活を送っていた。普遍的な幸せを享受しているように見えた。僕とそいつらの違いはなんなんだろう。


「墓参り」

 前の文章、ちょっと感傷的に書き殴ってしまった気がしたけど、あのお話は過去の経験とその時の感情のフラッシュバックを書き起こしただけだから、そんなに気にしないで。僕は今、だいぶ幸せな生活を送れているのだから。ところで、最近僕はじいちゃんの墓参りに出かけた。あいも変わらず、じいちゃんの墓はそこにあった。僕が前向きに生きれていることを報告してきた。それはじいちゃんに、だけではなく僕自身に伝えることを含んでいる。人に伝えることは、自分の再確認に最適だからね。  俺はダメダメだけど、俺なりに生きています。

 

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