1.仕事を辞めました

"石の上にも三年"という言葉がこれまでしっくりこなかった。
「我慢強く耐え忍べば、やがて報われる」というような意味なのはわかるのだが、わかりやすいようで とてもわかりずらい。
ここでの"三年"という言葉は、3 yearsという意味ではなく、あくまで長い期間の例えなのだろうけれど、まるで「3年間は辛抱しよう!」みたいなニュアンスで使われがちな気がする。
なぜならその3年という月日が、妙に我々の私生活にマッチしてしまって、このことわざをややこしくしているからだ。
中学や高校は3年間だし、新卒扱いを受けるのも卒業から3年後まで、挙句の果てには 恋の寿命なんかも3年だと言われていたりする。
3年という期間は我々にとって、色々とうんざりしてしまう期間なのだ。
このことわざは、大昔から、何かを始めて3年が経つか経たないかのうんざりしかけた大勢の人間の脳にチラつき、それが少しの解釈のズレと共に流行り続けているのだと私は考えている。

私もその犠牲者の1人だ。
中学や高校の期間が3年なのは周知の事実だと思うが、派遣社員が同じ現場で働くことのできる期間も3年だということは、あまり知られていないのではないだろうか。
私は、とある物流倉庫に3年間派遣社員として勤め、3年が経過する1週間前に突然、このままでは来週から君を雇えなくなるから他を探すか ここで直接雇用になるか選びなさいという2択を迫られ、藁にも縋る思いで大慌てでそのままパートになり、そこからさらに3年近くが経過し、そして今日 6年近く勤めたこの職場を退職した。
雇用形態の変化を経て、3年を同じ職場で2度経験した私は、その中で何度かこのことわざを耳にしたし、頭にもよぎった。
言わずもがな、一般的な成功者と呼ぶには程遠い存在である私だからこそ、そもそもこのことわざのように どんな環境下でも耐え忍ぶことが正解なのか?という疑問を常に抱え続けた。
職場の窓から見える風景や、毎月銀行に振り込まれる給料の額は変わらず、まるで時間が止まっているかのような錯覚にも陥ったが、気づけば人類はウイルスと戦い始め、すぐ近くの国では戦争が始まって、世の中は変化のない私を置き去りにして音を立てて変わっていった。
そんな私自身も、鏡を見れば みてくれだけは大人になったし、歳もとった。
浦島太郎のような気分だった。
浦島太郎と違う所は、身を置いた場所が竜宮城程楽しい場所ではなかったということと、別に亀に連れられたわけではなく 自分で選んだ道だということだ。

悲しいが、どう言い繕っても、有意義でかけがえのない数年間だったとは言い難い。
この職場に最初に訪れた時、周りの友人は皆 大学生だった。
それが今は、ある人は店長になり、ある人は係長になり、ある人は起業した。
私はといえば玉手箱を開けて途方に暮れる浦島太郎である。
一体何を誇れようか。
強いて周りより徳をした例を挙げるならば、足腰が鍛えられ ジム要らずの肉体を手に入れたことと、摂取カロリーが消費カロリーになかなか追いつかず、体型を気にすることなく暴飲暴食ができたことくらいだったが、それすらも心から誇れることでは決してなかった。

しかし、不思議なものだ。
これだけネガティブな言葉を書き並べてはみたものの、辛い日々だったのかと問われれば、決してそんなこともない。
そもそも、家から近い物流倉庫はいくらでもあったし、この生活自体からは抜け出せぬまでも、職場を変えるチャンスはこれまでにもたくさんあった。
けれど、そうはしなかった。
先述した通り、私は亀に連れられたわけではなく自分でここに辿り着き、自分でここに居続けたのだ。
私はやはり、なんだかんだで、この職場が好きだったのだろう。
タバコのカートン、お菓子、コーラ、エナジードリンク、シャンパン、QUOカード、高級なボールペン、たくさんの手紙、家に帰り 職場の仲間たちから餞別としてもらった様々な品を机に並べ、思い耽る。
その一つ一つ、それらをくれた一人一人との思い出が脳を駆け巡り、彼らのことが好きだったことを再認識した。
そして今、溢れんばかりの寂しさが私の胸にあることにも気付いた。

なんというか、良くも悪くも私は、とても厄介な環境に身を置いたものだと考えてしまう。
派遣、非正規雇用、低所得者、肉体労働者など、私を言い表す言葉は色々とあったが、それらの肩書きが最初は惨めであったし、コンプレックスだった。
倉庫中を駆け巡る機械音、漂う汗と埃の匂い、学生時代には接してこなかった様な人種、それらの全てを最初は嫌い 憎んだ。
「自分はこいつらとは違う 来年にはこんな所には居ない筈だ」そう思った。
それが徐々に、自分はここにしか居場所がないことに気付き始め、諦め そして慣れていった。
反面教師として見ていた職場の同僚達を、いつからか自分を映す鏡のように認識し出した。
そして最後には、そんな環境や一緒に働くみんなのことが好きになった。
仕事中には機械音に負けない程の大きな声で指示を出し、作業着には汗と埃の匂いが染み付き、そんな自分と同じような仲間が 自分を使いたいという上司が 自分の下で勉強したいという部下が周りには増えていった。
振り返ってみると、嫌いだったこの職場の全てが、自分の歴史になっていたし、心の拠り所になっていたし、なんだか愛しくすらも感じていた。
餞別に囲まれ、みんなとの思い出を振り返ってみると、素敵な数年間だったと思い、目頭が熱くなるのだった。

こうなると、"石の上にも三年"という言葉が私にとってはやっぱりしっくりこない。
耐え忍ぶより前に、私は石の上に慣れ、終いには好きになってしまった。
日々職場を好きになっていく気持ちと、社会や第三者からの自分への評価との乖離に悩まされ、本当にこのままでいいのか?という自問自答や葛藤をする日々の方が寧ろ、私にとっては石の上にいるような耐え難い感覚でもあった。

転機が訪れたのは、先々月の頭であった。
知人経由でとある中小企業の社長さんから連絡があった。
どうやら知人から知人へ、そこからまた別の知人へと、私のこれまでの職場での評価が業界を超えて広まって行き、その中でそれが社長さんの耳にも入り、私を高く買って下さったらしい。
その上で、私に対して 自分の会社で働いて欲しいというオファーをして下った。
若い働き手が欲しくて、フラフラしている若者を探していただけかもしれないし、真相はわからないが、それでも自分にとっては願ってもない光栄な話であったし、感謝してもしきれないという気持ちでいっぱいだった。
今の職場との別れに戸惑いこそあったが、収入面や 正社員という社会的な安定性など自分の将来を考え、この度今の職場を退職し、新たな職場に就職するという選択をした。
その後 具体的な日時や金銭面の打ち合わせを済ませ、今の職場に退職する意志を伝え、残された期間で 引き継ぎを行い、みんなから送別会などをしてもらい、今日に至る。
皮肉にも私は、"石の上にも三年"を予期せぬ形で体現することとなってしまったのだ。
耐えの忍んだといえば聞こえはいいが、もしかしたら他に選択肢が無く、ただ時間が経過しただけなのかもしれない。
それでも、1つのことを続け、それによって1つの結果を残したという意味では、私も報われたのではないか......そう、思うことにした。

全ての準備が終わり、新しい職場への出勤は、数日後にまで迫った。
しかし、別れからくる寂しさと、新天地への緊張とで、今の私にとっての数日間は、とても長く感じたし、その長い時の中で私に出来る残されたことは、考えることだけとなった。
何度も言うように、有意義でかけがえのない数年間だったとは言い難い。
しかしその一方で、通らなければよかった道かと言われればそういうわけではない。
好きになった環境、好きになった仲間達、それらの思い出を胸に、仮にこのまま過去に戻ったとしても、私はまた同じ道を歩むような気がしてしまう。
馴れ合いと言われてしまったらそれまでかもしれない。
ただ、自分の通ってきた道を、自分の意思で歩んだ上で否定も後悔もしたくはない。

この矛盾というか モヤモヤをどうにかして解消したかった。
嫌いな環境も、いずれは慣れ、最後には好きになるーそういった人間の適応力の恐ろしさ そして素晴らしさを、未来の自分に これまでに出会った大切な人達に これから出会う大切な人達に、時には失敗談として 時には自慢話として語り継ぐことができれば、この数年間も決して無駄にはならないのではないだろうか。
ふとそう思った。
だから私は、これまでに起きた出来事や これまでに出会い別れた人達のことを文として残していくことにした。
時が経ち、いつかこの日々がただの自分の宙ぶらりんな期間として、昇華されてしまう前に、形に残しておきたいと思った。
新しい仕事をしながら並行し、どれくらいの頻度で更新できるかはわからないが、徒然なるままやっていきたい。
拙い文章力かもしれませんが、それでも読んで下さる方がいらっしゃいましたら、これからもどうぞよろしくお願い致します。



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