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「何かを知ること」について

こんにちは、すけとうだらです。

英語関連の投稿しかしていないのに、プロフィールには大学院で哲学を学びたいとほざき散らかしており、一体全体どうなっているんだ、と思われた方もいるかもわかりません(そもそも、私の記事に目を通してくれる方が少ないので、そう思う機会を持っている方も少ないはずですが)。しかし、私自身では哲学を学んでいるつもりです。哲学を学ぶとは、哲学書を読んだり、その解説書を読んだり、ということを意味して言っています。まだまだ、哲学を「する」段階には程遠い気がしますが。

しかし、前段落で展開した、哲学をやっているアピールがこの文章でどのように作用するのかわかりません。なぜなら、この文章はもしかしたら人によっては、哲学とは無関係のものかもしれないからです。では、なぜそれを書いたのかと言うと、少なくとも私自身としては、これから記そうとすることが、哲学と幾分か関係しているように思えたからに他ならないでしょう(ここで、あなたにとっての哲学とは何だ、という声が聞こえてきそうですが、それに答えると圧倒的にこの文章の趣旨とは逸れてしまうので、ここでは記せません。はい、逃げました)。

また、英語に関する記事しか書いてこなかった人間が、この文章(英語関連以外の文章)を書いている理由は、私が書きたかったからです。それ以上でもそれ以下でもありません。拙い文章になることが予想されますので、読まれる方は注意して下さい。

先に断っておくことがあります。それは、noteに注釈機能がないので、注釈にあたるようなものを括弧書きしなくてはなりません、ということです。見づらかったら申し訳ございません。

前置きが長くなりましたね。本丸に入りたいと思います。


1) 問題の出発点

大学の春学期が始まり、とある授業のガイダンスでその授業の目標(全授業受講後、どのようなことができるようになっているか)が説明されました(ちなみに、私の通っている大学はオンライン授業で、同授業はオンデマンド型授業となっております)。その目標の一つに掲げられていたことが、「この授業を通して〜を知り、〜から脱却し、自由な思考を手に入れよう」というようなものでした(「〜」には同授業のメイントピックが入りますが、この議論には関係がないと判断したため、「〜」表記をしています)。

それを見たときに、なんて心強く力強いメッセージなのだろう、と思った一方で、「何かを知ることで自由になることができる(自由な思考ができる)」という文言に、少し不思議さを感じました。


2) 不思議さについて

なぜ不思議に感じるのかを、およそ2日ほどぼんやりと考えていました。すると、最終的に浮かんできた考えは、「何かを知ること」によって、その知ったこと(k)を通してしか物事を捉えられなくなる可能性があるのではないか、と思ったのですね。つまり、あることを考えるときに、kというフィルターが不可避的に介入してしまうということです。

もしこの仮説が正しいのであれば、その思考は自由と言えるのでしょうか。何かに固定されつつ思考することは、自由と真逆にあるものに感じられます。もちろん、kが取り外し可能(非不可避的思考フィルター)であれば問題はないのでしょうが(むしろそのようなkの方が多い気もします。あくまで直観的に)。

また、授業目標に書いてあった「〜からの脱却」という点も興味深いですね。あることから脱却したときに、我々はあらゆるものに対して無所属な期間というものがあるのでしょうか。つまり、我々は常にある立場・見方をとっているのではないでしょうか(それが意識的かどうかは置いておいて)。そうであれば、根本的に自由な思考というものが可能かどうかが怪しくなってくる気がします。


3) おわりに

「自由」という言葉の定義をしていないので、今まで書いて来たことが宙ぶらりんな気がします。ただ「自由」を定義(言語化)できるほど、その概念が理解できていないです。書き出しておいて申し訳ないです。ただ文章を書きたかっただけなので、どうか許してください。

ただここまで読んでくださった方は、「あらゆることに囚われないこと」を私が「自由」と感じている、と考えたかもしれませんね。そうなると、「あらゆることに囚われない」とは何を表すのか、という問いが出てきそうですね。わかりません。

今後はこのような日々の雑感のようなものも「自由」に書いていきたいと思います。

失礼します。

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