たのしい記

 申し訳ない、はひとつその人個人だけの感情であるように思う。


 高3の10月も半ばで、受験の山とイワレル夏を越えしばらく経った今、すっかりひと仕事終わったような気分でいる。わかってる。勿論自分でわかっている。危うい。このままでは、いけない。
 この文の塊は一体何なのかはっきりはしないししていくことも無い。只、先人のお言葉を拝借させて頂きございますると、徒然、を記していきたいのだ。
 話が冒頭に戻りたがっているので、少し小走り。十数歩で立ち止まり、少し屈んで右の小路に逸れてしまう。それこそ人生(誰がほざく)の醍醐味だと睨んでいる、が別に今はいい。

 たんぽぽはひらがなのままがいい。さっき変換で出てきた蒲公英は単に黄と濃緑の植物である感がする。もっとほわほわしててほしい。

 戻ってきた。多分。喉が渇いたがまわりに自販機がない。ちらと見上げると白をベースに切り抜いた淡青が貼ってある。作るの大変だっただろうな。
 ご飯の誘いを受けた後申し訳なくなって、行かず帰ったことがあった。申し訳ないから帰る、というのを伝えた時、行きたくないなら別にそれでいいが申し訳ないが理由なら是非行こう、という返答があった。私が申し訳ないと感じたワケは一旦置いておくが、このとき私は、違うなと思ったのだ。
 「申し訳ない」と「行きたくない」が因果だったらこの場合、私は二つに割れて片や笑顔で鮨を頬張り、片や電車に揺られ、暗くて50%は自分のなんとも言えない顔である景色を眺めなければならないのか。申し訳ないから行きたくないんだと、消極的で妥協的な「行きたくない」だったんだと弁解したい。
 もうひとつ、向こうが私の「申し訳ない」の解放キーを握っているような雰囲気を醸していたのが気に食わなかった。
 「申し訳ない」は私の、私だけが所有し、私の中でいずれ消化されるはずの感情なのである。というかそうであるべきである。何故なのかは論じれないが、感情は相対的で他の環境での免疫がない奴らだから、私から離れてほしくないと思うのだ。

 また明日がくるらしい。一昨日の、ガラスに映った自分は、はてどんな顔をしていたかしら。

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