2023.01.28

 社会不適合者は表現者になれ、というかなるしかない、なれば救われる……というのは私がよく言っていることなのですが、今日はそれについて。

 表現の種類は問わない。小説、音楽、踊り、演劇、ラップ、何だって構わないのだ。自分自身を表現するものであれば本当に何でも。

 2軒目ラジオでZUNが「社会適合者は物なんか作らない」と言っていた。発達障害が原因で会社を辞め、メイド喫茶を開いた知人は「現実に満足してたらメイド喫茶なんか行かないし、小説なんかも書かないよね」と言った。メイドさんもある種の表現だと思う。メイド喫茶はキャバやガルバ、風俗とはちょっと訳が違う。何が違うかについては今度説明します。

 人と違う人生なんて言えば聞こえが良いが、それは逸脱で異常で歪だ。社会から爪弾きにされるべき不適合だ。そんな社会に受け入れてもらう最後の手段、あるいは恨み言を届けるための拡声器、自分と似たような社会不適合者へ差し伸べられる救いの手、そういうものが表現に当たる。普通に生きる上では弱みであり障害でしかなかったそれは、表現をする時にだけ武器になる。表現をして認められれば今まで否定されてきたその人生の全ては肯定されるのだ。

 4年来の字書きの友人と飲んだとき、やっぱり私たちは小説を書かなければいけないという話をした。「書くことを完全にやめたら過去を恨むしかなくなってしまうから」と私は言った。表現し続ける限りにおいてのみ逸脱は武器だ。表現をやめたらそれはただの障害だ。場合によっては名前や同情、年金や手帳が付与されるような。

 私はこの期に及んで見下されるのが嫌いだ。小説家なんて大層なものになれないのは分かっている。しかし表現者への憧憬を捨てきれないのだ。そして表現は舞台でするものだ。表現者になりたい、肯定されたい、その最後の砦としてストリップダンサーという目標がある。

 舞台はいいものだ。そこに立てば無条件で主役、背筋が伸びて音が消える。その舞台の上は1人かもしれないし、大人数かもしれないし、誰かと戦う場かもしれない。地下の薄暗い上がり框かもしれないし、何千人規模の大ホールかもしれない。しかしそこに立ったあなたは紛れもなく、その舞台でその表現の主役だ。

 木染は全ての舞台に立ち表現をする人間を応援しています。

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