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対話と傷口と相手の感情と

さて。1週間前、いやもう少し前から、異様に対話をしたくて仕方がない。いても経ってもいられず、「対話」で調べて検索に引っかかった対話ワークショップに参加してみた。

やっぱり、対話は面白い。

正直、「これは何のための場だろう」と思った瞬間に、苦痛な場になるだろうその空間に対して、結局、人は何を求めてここにいるのだろうと色々と考えを巡らせてみる。

行きつく先は、「自分との対話」ではなかろうか。これをしたくて、私はここにいる。だから、本当はもっと心揺さぶられる衝撃も欲しかったりもする。何かを乗り越える、もしくは混乱の渦にある、その過程や最中の空間に「生きている実感」や「心が燃え上がる」経験をする。

自分のことでなくてもちろん良い。

一方で、自分が体験をしている気分になる。

そして、それも体験したくて、私はここにいる。

以前、若い時分に、部下を自殺に追いやったと告白し、黒い感情を吐き続けた人を目の当たりにした。その際、その黒い感情が私の中にどすんと入りこんで、しばらく眠れない夜を過ごし、二度と日の当たる世界に出られないのではないかという感情に支配された。

人の感情を、自分のものにする必要はない。勝手に相手の経験を自分の経験に刷り込んだのは、自分の意思である。

今ではすっかり、相手の感情をもらわない術を身に付けてしまった。そうすると人生の彩が少し薄れる。

今日、3歳の娘が頭から転んで、結構な傷をおでこに作って病院に駆け込んだ。ぱっくり切れた傷口を眺めながら、これは縫うだろうなーとものすごい冷静な中、オットは傷口を直視できない。直視できないくせに、「たいしたことないでしょ」とガーゼと消毒で済まそうとしている。

いやいや、穴も開いているし、ダメでしょ。病院でしょ、と、しぶる夫に病院を探させ、連れて行かせた。数針縫ったらしい。

そばで見ていた娘も息子も、大量の血に大騒ぎで、パニくっている。

人の感情や痛みを自分のモノにする必要がないから、私は冷静でいられる。

一方で、やっぱり、人の体験から自分の経験にリンクしたいとも思う。

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