レディプレイヤーワン

【映画感想】レディ・プレイヤー1が俺たちの尻をケリとばした

俺だ。コセン・ニンジャだ。日本はオタク大国だという話を聞く。アニメ、ゲーム、漫画、小説、それぞれの分野が日本独自の進化を遂げ、世界に通用するレベルに来ている。もちろん、それは事実だし、俺もそう信じている。『萌え』という言葉を誰が一番先に使ったかは知らないが、俺は素敵な言葉だと思う。好きなものを見ると、「萌えー!」といまだに叫んでいる。

しかし、レディ・プレイヤー1を見た時、俺の心は砕け散った。やられた、と思った。そもそも、パシフィックリム。いや、ザ・ウィザードの時から、既に警戒するべきだったのだ。『奴らはやるぞ』と。俺たちが萌え萌え大国ニッポンの栄光の上に胡坐をかいて余裕しゃくしゃくにしていると、必ず足元をすくわれるぞ。と。今日は、その予感が当たってしまった話。『レディ・プレイヤー1』について語ろう。まだ見てない人は、インターネットを閉じて、今すぐ映画館に走れ。3Dだ。3Dだぞ!!!

開始10分で首吊り縄を探した

人は時に空想する。「デロリアンをサーキットで思いっきりかっ飛ばしたら、どんなにスカッとするか」あるいは、「金田のバイクを高速道路でぶっ飛ばしたら、どんなにかっこいいか」それらは空想であるからこそ、カッコよくイメージできるし、理想は青天井のまま、天まで届けとばかりにどこまでも高みに上っていく。しかし、それらが空想ではなく、明確な映像として、この世に形を持って生まれ出てしまった。それがレディ・プレイヤー1の開始10分だ。

この時点で俺はあまりの感動に泣きかけた。と同時に、頭から空想を奪い取られた気分になった。まるで今まで大切に温めておいた卵が孵化する寸前に、それを鷹に奪い取られた、親鳥のような気分に。俺は劇場で、反射的にこう叫んでいた。『やられた!奴らにやられた!』と。次に、再び空想を抱くことができる場所を求めた。すなわち、これらの映像の存在しない場所。地獄への切符を求め始めた。がらがらの映画館の中で手を振り回し、首を吊る縄を欲した。けれど、映画館にそんなサービスはない。俺は開始10分で最終ラウンドを迎えたボクサーよろしく、ただシートにぐったりと背を預けることしかできなかった。

絶対に3Dで見ろ

後悔した。俺は2Dで見たが、この映画を劇場で見るなら、3Dで見るしかない。開始数分で、はるかかなたの銀河系で回転する惑星ルーレットや、宇宙の果てで行われるエネルギー弾飛び交う銃撃戦を見て、そう思った。この映画はほぼ3D専用だ。3Dで見れば、光線銃が俺の頭を吹き飛ばし、キングコングの咆哮が間近で見られ、ガンダムと○○○○○の死闘により臨場感を感じられたに違いない。

というか、もう、夢の競演というレベルではなく、スパロボとかスマブラとかPXZなど、クロスオーバーものと俗に言われるものがこの世に数あれど、ここまで多種多彩なネタを用意して、アメリカらしい物量攻撃で殴りつけてくるコンテンツが今までにあっただろうか。そのすべてを体に感じるには、3Dしかないのではないだろうか。そうとしか考えられない。だから3Dで見るんだ。俺の二の舞になるな。3D。忘れることなかれ。

『やられた!』それしか言えない理由

最高の映画だと思う。古今東西のオタクネタを総結集して、映画一本にして、この世に送り出す。口で言うのは簡単だが、実際に行うのはとても難しかったにちがいない。しかし、やってしまった。いや、やられてしまったのだ。俺は正直、この手のものを出すのは、日本だと信じていた。映画だけじゃなく、もっと別の形でもいいから、こんな企画をやってのけるのは、オタク大国たる日本だと、心のどこかで期待していたのかもしれない。

あまりに愚かな妄想で、あまりに愚かな期待だった。まさにケツを蹴り飛ばされたわけだ。お前が信ずるものは死んだ!この映画を楽しめ!だ。映画が上映してる間、感動と共に怒りが湧きあがってきた。俺たちは日本のオタクなんだぞ!日本の…オタクだぞ…!と自信が萎え錆びていくのを感じた。もはやマネーゲームの材料としか見られないものにはない、愛を感じた。文化に対する愛情。オタクたちに対する敬意。それ抜きでこの映画を作り上げたのなら、それはそれですごいことだが、少なくとも俺は確かに感じた。文化愛を。

ATARIからVR機器に至るまで。古典映画から新作映画に至るまで。連綿と続いてきた文化に対する愛情を感じた。その結晶がこの映画ならば、俺たちが何を失い、代わりに何を得たのか。それがはっきりとわかる気がするのだ。それを思い知らされた。だから「やられた!」なのだ。

人類の敵を失った人類

この映画には、数えきれないほどのイースターエッグがある。それこそ、一つ一つ説明していたら、それだけで一冊の本ができるくらいだ。たぶん、ネット上で説明しているサイトが既にあるはずだ。だから俺はあえて語らない。代わりに、この映画に出てくる仮想空間『オアシス』の設計者、『ジェームズ・ドノヴァン・ハリデー』の役どころについて語ろうと思う。

かつて、長年クリアされなかったゲームがある。縦スクロールSTGゲーム『怒首領蜂 大往生(PS2版)』のモードの一つ、デスレーベルだ。デスレーベル自体、STGゲームの全体を見てもかなり高難易度なゲームなのだが、そのデスレーベルの最奥に潜む、真のボスは格が違った。『真緋蜂・改』。そのボスは、ニコニコ大百科曰く『人間の動体視力と脳内処理能力では追い付かない』ほどの弾速で弾幕を繰り出す、STG最悪のボスだった。画面内で回転するように繰り出される二色の高速弾がプレイヤーの機体を圧殺する様は、『二葬洗濯機』と呼ばれ、恐れられた。数年が経ち、STG界のトッププレイヤーたちが束になっても攻略できず、いつしか誰かが、諦めと共にそのボスをこう呼んだ。『人類の敵』と。もはやただのゲームのボスとしての枠を超え、人類の前に立ちふさがる壁として、そのボスは認識されたのだ。そして七年がたち、ついに真緋蜂・改はMON氏の前に敗れ去り、人類は勝利した。

この話と、ハリデーの試練には共通点がある。

・長年攻略されず、人類の試練となった

というところだ。ハリデーの試練には莫大な報酬があったが、問題はそこではない。両者ともに人類の壁として、あるいは討伐すべき目標として、ゲームのプレイヤーの前に立ちはだかったことだ。その目標が、ゲームのモチベーションとなり、さらにはそれに挑むゲームプレイヤーを英雄たらしめていたと、俺は思う。

ハリデーの試練がクリアされたオアシスは、どこかたるんだ空気になっていないか、俺は心配だ。オアシスのプレイヤーに対する、更なる試練を主人公が用意するかは分からないが、俺はぜひとも用意してほしいと思う。なぜなら、歴史が証明し続けてきた通り、人間には絶対的な敵が必要なのだから。それが物理的であれ、論理的であれ。

最後に

かなり話がずれる。最近、ツイッターではオタクの人権だの、よくわからない論争が巻き起こっている。いつものことだが。確かに、オタク文化は大多数の人には受け入れづらいかもしれない。たった一言『キモイ』と切り捨てられるようなものかもしれない。他人の価値観が絶対に理解できない自分がいることを、人は否定することができないし、そのことで傷ついている人がたくさんいると思う。

けれど俺が思うに、必要なのは、ほんの少しだけ許してあげる気持ちだと思う。確かに、ネットで他人の異常性癖を見てしまったり、それが正義なんだ!と叫ぶ人を見たりして、気分が悪くなる時もあると思う。俺もある。でも、それは人の主張の一つだし、それをネットで叫ぶ自由はだれしも持っている。オタク人権問題も、『ああ、君はオタクなんだな。アニメやゲームがすごく好きなんだな。それはいいことだと思うよ』くらいに思っておけばいいと思うし、そうすれば、逆の立場でも『ああ、君はたくさんの人と騒いだり、カラオケしたり、自分を着飾って合コンするのが好きなんだな。いい友達を持ってるね、それはいいことだと思うよ』なくらいには思ってくれると思う。あとは、現実にそれらをさらけ出す比率の問題で、個々人のモラルを信じるしかない。

なんでこの話をしたかというと、アニメやゲームのCMでお茶の間が凍り付いたという話を聞くと、とても悲しくなるからだ(演出的な問題もあるにはある。昔のアクエリオンのCMとかやりすぎだと思う)。確かに、オタク文化は長年アンダーグラウンドなもので、悪い言い方をすれば、差別的な対象だった。ゲームが脳に悪いという事をレントゲン写真で説明するワゴン車の中を通ったこともある。オタク文化は発展を遂げる一方で、後ろ指をさされる対象であった事実が確かにある。でも、そろそろ許してほしい。ほんの少しだけでも。それが好きだという事に対して、わざわざ噛みついたり、オタクは人間じゃない、なんて酷いことを言わないでほしい。なぜなら、何かを好きだと思うことは、あらゆる分野に関わらず、とても素晴らしいことだと俺は思うからだ。

価値観のぶつけ合いによる個々人の潰しあいではなく、そうしたリスペクトのやり合いが、あらゆる文化を発展させ、色んなことをいい方向に持っていくための取っ掛かりだと俺は思う。スピルバーグ監督の最新作という情報だけでレディ・プレイヤー1を見て、オタク文化に興味を持った人がいるなら、それも素晴らしいことだと思う。あらゆる文化にリスペクトを。レディ・プレイヤー1のスタッフロールを見ながら、俺はそう思い、「萌えー!」と叫んだ。



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