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十月十七日、祖母が亡くなった。
深夜三時過ぎに訃報を受け、少しだけ仮眠をとってから、喪服をスーツケースに詰めて新幹線で地元へ向かった。

車内でなんとなく「きょう 何の日」と検索すると、「天赦日」と出た。「天にすべての罪が赦され、何をやってもうまくいく」とされる、一年にたった六日しかない縁起の良い日だという。
命日が吉日って、どうなんだろう。
葬儀がある翌日の吉凶も調べてみると、「一粒万倍日」と出た。
「一粒の稲からたくさんのお米ができるように、物事が大きな成果につながる日。何かを始めるのに最適」

こっちはおばあちゃんが死んでいるのに、ちょっと寿ぎすぎではないか。
ただ、祖母が過ごしてきた歳月を振り返ると、良い門出なのかもしれないとも思った。

***

祖母は二十年ほど前に認知症を発症した。

一九九九年に祖父が亡くなってから急速に記憶力が弱り、料理の味付けを忘れたり、会話の意味がとれないことが増えた。実家で同居していた時期もあったが、症状の悪化にともない、ケア設備の整った介護施設に入居した。

一緒に住んでいた頃は、よく肩を揉んであげていた。祖母のためと言うより、おままごと感覚でステレオタイプな孫の役を演じるのが楽しかったのだ。
ドラえもんやサザエさんやちびまる子ちゃんのような一家団欒に憧れていた私は、両親が不仲なせいでそれが叶わないことを知っていた。
一人っ子なので、父母がいがみ合っているとき片方に優しくするともう一方の機嫌が悪くなる。どちらにもいい顔をしているとそれはそれで叱られる。
余計な波紋を引き起こすことなく家族ごっこをしたいときの最良の相手、それが祖母だった。

マッサージするときはいつも、仏間の畳の上に座布団を縦に四枚並べて簡易の寝床をつくった。
「おばあちゃん、肩もみしようか」と呼ぶと、祖母は何をしているときでもすぐにやって来て「それじゃあ、お願いしようかねぇ」と横になった。

うつ伏せに寝た祖母の背中にまたがり、体重をかけすぎないよう調整しながら丹念に肩を揉んだ。
小柄な祖母の肩は丸くて柔らかく、骨をほとんど感じなかった。力を入れると指がくっ、と肉に埋まるので、痛いのではないかと心配になったが、祖母は強めに揉まれるのが好きらしく、「もっと力を入れても大丈夫よ」とよく言われた。
うまくほぐせると「上手じゃねぇ、気持ちいいねぇ」と大げさに喜んでくれる。その声をもっと聴きたくて、いつまでも揉んでいた。
揉んでいるうちに祖母が寝てしまう日もあった。そういうときは自分も隣に寝転んで、寄り添って目をつむるとすぐに眠気がきた。目を覚ますと祖母はいなくて、体に綿のタオルケットがかけられていた。

祖母が施設に入ってからは、定期的にお見舞いに通った。
会うたびに痩せ衰えていく体と連動するように、その小さな頭から、記憶もどんどんこぼれていった。

二十三歳の夏、東京で買ったお菓子を持って久しぶりに施設へ行った。
「おばあちゃん、来たよ」と声をかけると、「初めまして」とお辞儀をされた。「○○だよ」と名乗ると、不思議そうに微笑んでいる。祖母がつけてくれた名前だったのに。
喋ることがなくなって肩をさすると、嬉しそうに目を細めて「あらあら、ご親切に」と言われた。パジャマ越しに触った祖母の肩は、かしゃかしゃと崩れそうなほど細く骨ばっていて、もう怖くて揉めなかった。

そこからさらに十年が過ぎた。
孫のことも、自分自身のこともわからなくなってから十年。
過去も現在も未来もない茫洋とした月日を漂っているあいだ、祖母は何を考えていたのだろう。本人の意思とは関係なく、自動的に与えられる食事と投薬だけで肉体を維持し続ける人生は、幸せとは遠いように思えた。

 ***

実家に着いてすぐ仏間に行き、祖母の遺体が、仏壇と平行に安置されているところを見た。座布団四枚に収まるはずの祖母の体は大きなお棺に入れられて、小窓から見えるちんまりした顔との対比が悲しかった。

十月十八日、火葬の後で祖母の骨を拾った。
親族が交互に箸で骨をつまみ、足のほうから順に骨壺に納めていく。骨壺の中に故人が立っているように入れるのだ、と説明された。

「ここが踝、ここが膝、ここが骨盤…………」
葬儀場の職員の事務的な声を聞きながら、私は大小の骨が次々と、灰のなかから取り上げられていくのを見ていた。

「ここが肩」

それは私が入れたい、と思ったけれど、母の順番だった。私は鎖骨を入れた。最後に父が喉仏を入れて、上から頭蓋骨をかぶせた。
壺に満杯になった骨はもう、どれがどれだかわからなかった。

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