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感情電車 #14 「一皮ムケた春」

「まだ剥けないのか。今度行かないと」

初めて父にそう言われたのは、私がまだ小学四年の頃だった。父は、私が包茎であることを早々に心配していた。小学四年の私というと、プロレスに嵌った頃だ。そう思うと、えらい早い段階から包茎を心配されたものだなと思う。
私の父は韓国人である。私は日本人の母と韓国人の父の間に生まれた日韓のハーフだ。ハーフではあるが、生まれも育ちも日本である。その上、父は私が小学一年の頃に名古屋で起業して富山を離れ、そのまま父が富山に戻ることはなく、両親は離婚した。テレビに出てくるハーフタレントのように、誰が見ても海外の血が混じっている顔をしているわけではないから、ハーフの自覚すらない。
私の体には韓国の血が流れているというのに、私は韓国の文化を全くと言っていいほど知らないのだが、そんな私が知っている数少ない韓国の文化のうちの一つに包茎事情というのがあった。父曰く、韓国には包茎の大人がいないらしい。年に一度、富山か名古屋で合流した父と銭湯へ行く度に「まだ剥けないのか」と言われるのは、韓国では包茎がありえないことであるからだった。
韓国の男性は、二十歳から二十八歳までの間に入隊を強いられ、二年間の軍隊生活を過ごさなければいけない。それは私の父であろうと、今をときめくK-POPアイドルであろうと、犯罪者などの一部の人間を除いた皆に平等に課せられた義務である。
韓国人男性は皆、入隊する前までに皮が剥けていなかったら、家族と病院へ行って包茎手術を受けるのだと父は私に説明した。早い人なら自然発生的に剥ける余地がある小中学生の頃に、前以て手術を受けてしまうそうだ。国を守る逞しい男たるもの包茎であるべからずらしい。
育ってきた環境が違うから、父の「行かないと」は否めない。それでも私は、手術に行かずして剥けると決心していた。本人はやっていないと言い張っていたが、父曰く包茎手術は信じられないほど痛いらしい。単純に痛い思いはしたくなかった。
「嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる」という戒めより、「剥けなかったらちんぽの皮を切られる」という戒めの方が現実味があってよっぽど怖かった。小学四年の頃から頼むから剥けて欲しいと願っていた。

「韓国のその事情は分かったけど、必ずしも剥けなきゃいけないの?」

「そんなもんお前、包茎だと早漏になるだろ。だから行かないと」

「別にセックス以外に楽しいことがあれば早漏でいいと思うけどなあ。あと遅漏よりましそうだし、別に行かなくても…」

「パボ!」

包茎手術を受けに行くことを「行く」と略して会話を進める父と、当たり前のようにそれを受け入れる息子は、他人から見れば異常なのかもしれなかったが、これが私達親子だった。



「そろそろ本当に行かないとな」

私がそう思い始めたのは、高専に入学したあたりのことだ。十六になっても、元気な時以外はピンクの自分が顔を覗かせてくれないとなると、剥ける機会を逃してしまったような気がしていた。既に剥けている同級生もいたから、不安が増す一方だった。いよいよ私も行かなければいけなかった。
しかしながら、手術に行けるタイミングがなかなか来なかった。高専一年の頃は、ラグビーで忙しかった。高専二年の頃は、勉強やら英語スピーチコンテストやらで忙しかった。高専三年以降は、長期休暇に入る度にプロレスを求めて富山の外を出歩いていた。帯広・札幌の北都プロレス、シカゴのインディーシーン、メキシコシティのルチャリブレ。どこも股間に爆弾を抱えたまま行くような場所ではなかった。
ましてや長期休暇ではない週末になんて行けるはずがなかった。週明けの体育の授業を何と言って休めばいいのか分からなかった。男子校なら笑い話にできたかもしれないが、クラスメイト50人中41人が女子だったから、「ちんぽの傷が癒えないんで休みます」なんて言えるはずがなかった。高専に入学して四年が経とうというのに、41人の女子の誰とも仲良くできていないのだから尚更そうだった。
剥けない日々は続いていた。変な自慰行為ばかりしていたのだから当然だった。粗品やザキヤマといった天才芸人達も包茎だと聞くと、もうこのままでも良い気がする時もあった。人と違う自慰行為をやっている自分は天才なのではないかとすら思うことがあった。
誰かの論文で読んだことがある。人類は皆一歳までは右利きらしいが、一歳を過ぎた時に突然左手を中心に使い始める人が左利きになるらしい。ほとんどの人が一歳を過ぎても右手を主として使うのに、唐突に左手を使い出す左利きの人は感性が独特であり、その独特な感性が映画やら絵画やらお笑いやらの芸術に昇華されているらしい。
私もそれと一緒ではないかと思った。例外は勿論あるが、所謂手コキに精を出し続ければ、コキの威力に屈した余り皮が垂れ下がり、ピンクの自分が顔を出すようになるのだろう。これが股間界の右利きだとしよう。
そんな一番便利な発射方法ではなく、独自の方法で精を出し続けると、剥けなくなる。自慰行為が独特、それは即ち感性が独特ということであり、感性が独特イコール天才なのではないかと考えていた。私は股間界の左利きだ。
初めて大人のビデオを見た時の衝撃は忘れられない。手を上下に摩る女性の姿を見て、こんな便利な出し方があったのかと思った。だが、その頃にはもうオリジナニーでしか精を出せない体になっていた。そんな私はひょっとして天才なのではないかと真剣に思っていた。
気が付けば、包茎に関する持論を展開できるほど頭が柔らかくなっていた私は、今後の人生の話のネタとしてなら、手術を受けておくのも悪くないなと考えていた。手術を受けるとなると、国内ではなく、父と一緒に韓国で受けることになるだろう。私は挨拶程度の韓国語しか話せなかった。言葉が通じない国で包茎手術を受けたというエピソードは面白いと思った。



やっといいタイミングがやってきた。2019年3月。高専四年の春休みだ。
私は四月にニューヨークへ旅立つのだった。その春、世界最大のプロレス興行・レッスルマニアの舞台として選ばれたのが、ニューヨーク(ニュージャージー)だった。レッスルマニアの時期に合わせて、幾多の小規模プロレス団体がニューヨークに一堂に会して、興行を打ちまくるのだった。私もその時期に合わせてニューヨークを訪れ、プロレスを観まくる予定だった。
当然だが、ニューヨークを旅するには資金が必要だった。ニューヨークへ出発するまでは、東京へ行ってプロレス観戦することなどできなかった。そんな時に父の言葉を思い出した。

「行きたいときはすぐに言ってね。手術代と旅費は持つから」

ニューヨークへ行くのは四月の第一週なのに、春休みは二月の下旬から始まっていた。二月の下旬から四月までの間に、魅力的なプロレス興行が日本全国で沢山打たれていた。観に行きたい興行が沢山あった。だが、この時ばかりはニューヨークへ行くためにお金を貯めなければならなくて、我慢することしかできなかった。
「それなら一層のこと、旅に行けない体にしてしまおう。砲弾に爆弾を負わせてしまおう」
そう考えた私は、2018年秋に父に連絡を入れた。晴れて2019年3月半ばに韓国へ“行く”ことになった。



2019年3月16日。父と中部国際空港で合流した。

「おう。身長伸びてないな」

一年ぶりに会う父が開口一番に身長について話した。年に一度だけ会う父は、私の身長が伸びないことと私が未だ包茎であることを毎度心配してきた。高身長がモテる男の必須条件で、国民全員が剥けている韓国出身の人間らしい目のつけどころだった。
出発まで時間があるので、フードコートに入ってカレーを食べた。

「早速明日行くから」

「…んっ!…っ、…っ、…先に言ってよ!」

驚きのあまり飲んでいた水が気管に入ってむせてしまった。そういえばいつ手術を受けるのか聞いていなかった。しかし、これから一週間も韓国に滞在する訳だから、旅の中盤或いは終盤あたりで行くのかと勝手に思っていた。
包茎手術が人生初の手術だった。人生初の手術が明日に迫っているというのに、不安より高揚感が勝っていた。これは一生モノのエピソードになるぞと私は手術に興奮していた。



ソウルで翌朝を迎えた。初めて顔を合わせる父の友人と父と私の三人でソウル市内の泌尿器科へ向かった。雑居ビルの三階にあるのが泌尿器科だった。事前に予約していたらしいが、その人にあった手術をするための準備があるそうで、即日の手術は難しいことが判明した。取り敢えず今日は様子だけ見せて欲しいとのことだった。
私だけ別室に連れて行かれた。韓国語は挨拶程度しかできないが、今目の前にいる医者がパンツを下ろしてくださいと言っていることだけはなんとなく理解できたので、指示されるがままに下半身を丸出した。医者の指示に従って、M字開脚で医者に小さな自分を見せつけた。医者は目を大きく開いてもう一人の私を見つめた。
見るだけでは済まなかった。いよいよ医者が私に触れ出した。目の前の医者が小さな私をしっかり握る。剥いて、戻して、剥いて、戻した。これは所謂手コキなのではないか、と考えながら、M字開脚をした私は目の前の医者を見つめた。初めて人にされる手コキが、まさか五十代韓国人男性によるものだとは思ってもいなかった。もう少し小さくて柔らかい同世代の手が良かったなと思いつつ、これは手術前にもう一つ面白いエピソードができたぞと、性的なものではない興奮を覚えている自分がいた。
引き続き医者が手コキで点検を受け続けた。初めて他人にもう一人の自分に触れられたことで、ある思いが脳裏をよぎった。
「ああ、やはり早漏にはなりたくない」
父の言っていた通りだった。
手術は明日することに決まった。手術方法は、「切らない手術」に決定した。一旦全開まで剥いた状態にして、余り皮の先端を一周するように竿に縫い付けるそうだ。縫い終わったら余り皮が上に戻ってこない。これにて剥けた自分の完成という運びだった。



手術当日。約束の午後一時に病院に到着した。受付で名前を告げて、即手術開始という運びなのかと思ったら、待合室でかなり待たされた。十分、十五分程度待たされるのかと思っていたのだが、男の看護師に名前を呼ばれた時には既に午後三時を回っていた。いつ呼ばれるのだろうとすら思わなくなって、段々と苛立っていた私は、さっさと手術を終わらせてくれの一心で着替え室に移動した。

「靴下だけ履いたままで服を全て脱いでください。そしてこの手術衣を着て手術室へ移動をお願いします」

みたいなことを男の看護師に言われた。言われた通りにハイソックスだけを履いたまま全裸になり、西村修の紫ガウンのような手術衣を着て、手術室へ移動した。
ここで父と一旦お別れだった。「一時間ほどで終わるからあっという間だよ」と父は言った。その一言を言われた瞬間、手術が一気に現実味を帯びてきた。人生初の手術に緊張する自分がここにきて現れた。
男の看護師と一緒に手術室に入った。白過ぎて青く見える無機質な空間の中央に、医療ドラマでしか見たことのなかった手術台がどっしりと構えていた。面白いエピソードを作りたい一心でここまで勢いで乗り越えてきたが、いざオペ室に入って本当に手術するのかと思うと、冷たい汗が額から流れた。
男の看護師のジェスチャー通りにガウンを脱ぎ捨て、手術台の上で仰向けになった。靴下だけ履いている全裸の私は、仰向けになった。きっと今の私は、ビデオ試写室でVRプレーヤーを装着して自慰に勤しんでいる時くらいみっともない格好をしていると思う。確かに緊張しているのに、まだこんなことを考える余裕はあるのかと思うと、少し緊張が解けてきた気もしてきた。
周りが日本語を話せないことをいいことに「もっと他に隠すところあるだろ」と小声で呟いてみた。心臓の音は少しずつ大きくなっていた。少しふざけた気持ちでいないと乗り越えられないくらいに緊張感が高まっていただけだった。
看護師が私の首の上に鳥居状の棒を立て始めた。次にその鳥居の上に大きな布を覆い被せた。出来上がった小さな暖簾は、私が顎を引いても、視界に手術中のもう一人の自分が入らないようにするためのものだと思う。
私が韓国語を上手く話せないことをいいことに看護師は無言で準備を進めた。何をされているのか推測できるものの、一応説明する姿勢くらい見せて欲しいなと考えていた時、両の手首がベッドと何か重りのようなものの間に挟まれて固定された。暖簾で視界が遮られているため、何で固定されたのか分からないが、強度はそんなにしっかりしたものではないようだ。力強く引っ張れば、大阪城ホールでのケニー・オメガ戦の時のマイケル・エルガンのように、この手錠を壊せそうだった。
「ビーーーッ」
電動シェーバーを持った看護師がもう一人の私の散髪を始める。そうか。手術前には毛を剃られるのか。それにしても、今から何をやるか説明してくれたらいいのに。
小さな散髪を終えたら、昨日M字開脚を求めてきた医者とはまた別の医者がやってきた。医者が私に何かを言ってくる。だが、私は医者が何を言っているか理解できない。困った表情の私を見た医者が不思議そうな顔をする。すると、隣にいた看護師が、医者に「この患者さん、韓国語を話せないんですよ」みたいなことを話してくれた。
腑に落ちた表情の医者が看護師に何やら指示を出す。看護師がチャプチャプと音を立てながら、手に何かを塗りたくっている。その手を小さな私に近づけた。冷たくてひんやりする液体にもう一人の私が包まれた。これは麻酔クリームだろうか。きっとそうだ。さっきから段々と勘が鋭くなっているような気がする。
一通り塗り終えたところで、医者が私に「チャンカンマンキダリシプシヨ」(少々お待ちください)と言い残して、看護師と共に手術室を去った。
一分くらいで戻ってくるのだろうと思っていたら、一分経っても、二分経っても、二人は戻ってこなかった。
無味乾燥な広くて白い手術室のど真ん中に、全裸で手首を固定された状態で、一人寝転がる私がいる。次第に不安は大きくなる。
ふと斜め上に目線をやると、大きな無影灯に小さな私が反射して映っていた。激しい試合を終えた後のデスマッチファイターのように真っ赤な色したちんぽが見えた。

言葉が通じない国。
人生初の手術。
生殖器の手術。
紅に染まったもう一人の俺。

その瞬間、漠然とした不安が強烈な恐怖へと様変わりした。

麻酔の効き目が悪くて痛かったらどうしよう。
ちんぽ元来の機能がなくなったらどうしよう。
扇風機おばさんみたいにパンッパンになったらどうしよう。
もう今のままでいい。出してくれ、早く俺をここから出してくれ。手錠を外してくれ。一生包茎のまま銭湯に通うから。アーーーーッ‼︎‼︎‼︎

時間にして五分。気が狂ってあと少しで全裸のまま手術室を飛び出しそうになっていたところで、医者と看護師が帰ってきた。
もう一度何かを股間に塗られた後に手術が始まった。かなり雑に触られているのはなんとなく分かるが、痛みも、痒みも、心地悪さも、心地良さも、何も感じない。麻酔が効いているようだった。
ああ、きっと今縫われているんだろうな、と思いながら天井を見つめる時間が続いた。看護師が全開まで剥いて、医者が何かやっているようだ。何かされている感覚はあるのに、痛みはない。麻酔の力に感動するだけの余裕が戻ってきていた。

「アッ!」

思わず声を漏らしてしまった。今、明らかに細い針が私の竿を貫通した。激痛が走るほどではないが、鋭利なものが刺さった感覚が確かにあった。伊東竜二がアブドーラ小林の口の中に注射器を入れ、頬に針を貫通させて、注射器の中に予め入れておいた液体をピューッと飛ばす、あの光景を思い出した。あの光景を思い出すと、興奮と若干の痛みが同時にやってきた。
私の漏れた声に先生が反応した。

「アプセヨ?」(痛かったでしょうか?)

「……ネ」(……はい)

「はい」と言ったところで何か変わるのだろうか。疑問を抱いている間も手術は進む。

目を開けたら四十分も時間が経っていた。どうやら眠っていたようだ。麻酔の効果なのか、元気な時以外はいつも顔を隠している照れ屋さんの私とお別れするのが寂しくて、午前三時まで起きていたからなのか、判断はつき兼ねたが、手術中にしっかり寝てしまった。自分のいびきで目を覚ます始末だった。
一時間で終わる手術だと父は言っていたが、この部屋に入ってから既に八十分も経っていることを白い壁に掛かったモダンな時計が教えてくれた。「あとどれだけでかかりますか?」くらいなら韓国語で質問できるが、八十分も経った今、初めてこちらから話す言葉がそれなのは、医者を急かしているようで少しどうかと思った。
「今更そんなこと聞いてくるんか?もっと先に色々聞くことあったやろ」「こっちだって手こずっとんねん。急かしてくんなや」
医者にそう思われるかもしれないと思った私は、そのまま無言を貫いた。医者の反感を買い、手術が失敗することなどあったら洒落にならない。

手術が終了した。「無事に手術が終了しました」みたいなことを看護師に言われて、暖簾と手錠の撤収が始まった。九十分の仰向け状態から起き上がると、目出し帽を被っているかのように少しだけ顔を見せた小さな自分が確認できた。先端以外はテーピングで強く固定されていた。もうこのまま外を歩いても捕まらないのではないかと思うほど、股間全体がテーピングで纏われていた。
西村のガウンを着て手術室を後にし、着替え室へとゆっくり歩いた。歩行はできるが、脚の感覚が若干ない。まだ麻酔が効いているようだ。
一時間半放置されていた服を手に取り、恐る恐る着た。脚をあげた瞬間に激痛が走る懸念があったから、恐る恐るパンツを履いた。思わぬタイミングで痛みを感じる可能性があったから、一つひとつの行為を丁寧にした。
手術が終わると、泌尿器科の隣にある薬局で七日分の痛み止めと傷口から菌が入らないようにするためのワセリンを貰った。果たして七日分で足りるのだろうかと思ったりしたが、何百回何千回と手術をしているであろう包茎手術大国の医者の言うことは間違いないだろうと信じることにした。

午後五時頃、父とホテルに戻った。ホテルに入る前に寄った近くのコンビニでバナナ牛乳とイチゴ牛乳のどちらにしようかなと考えていた時に、先程よりもテーピングがきつくなったような感覚があったのだが、ホテルに戻ると、違和感が痛みへと変わった。じわじわと痛み始めた。
これが初期の痛みなら、最大の痛みは計り知れないだろう。考えるだけで怖い。そう考えているうちに痛みが増す。ああ、まずい。本格的な痛みに突入し出した。痛過ぎる。痛い痛い。やばい。
私を見た父がスマホを触りながら笑っている。

「ははははは。懐かしいな」

「笑うなや。こっちはどれだけ痛いと思ってんねん。腹立つわ。…そういえば今、懐かしいって言ったよな。自分はやってない言い張ってたけど、やっぱり包茎手術しとるやんけ」という言葉は呑み込んだ。痛みと共に情緒が不安定になっていくが、痛過ぎて声に出して怒る気にはならない。
リラックスしたい時は甘い物を摂るべきだと考えた私は、先程購入したバナナ牛乳を飲んだ。バナナ牛乳を一気に飲み干すと、尿意が湧いてきた。
トイレへ行って、トライしてみる。出ない。一滴も出ない。普段何も考えずに行っている放尿という行為が、これほどまで難しくなるとは思いもしなかった。脳が「早くおしっこを発進しろ!」と股間に指示した三十秒後くらいにおしっこが出てきた。尿道を締め付けるくらいまで竿に強くテーピングを巻かれていたせいなのか、麻酔がまだ残っているせいなのか、左斜め上という普段ではあり得ない方向におしっこが飛び出した。まさかおしっこが重力に勝る日が来るとは思ってもいなかった。
それより痛い。それまでは股間全体がなんとなく痛くて、具体的に何処に痛みを感じるなどはなかったのだが、放尿中は尿道に痛みを感じた。特に体内から尿が出る瞬間なんかは、亀頭の口の部分からムカデでも出てきたのかと思うほど、むず痒かった。鋭い痛みのようにも、鈍痛のようにも感じられる、味わったことのない痛みが小さな私に押し寄せてきた。
飛び散ったおしっこを片付けるべく、トイレを掃除してからベッドのある方へと戻った。すぐに先程処方してもらった痛み止めを飲んだ。
これはいつまで続くのだろうか。今のトイレが痛みのピークなのだろうか。不安になったのでインターネットで色々と調べてみた。
「術後が一番痛いですが、2週間くらいはずっと痛みが続きます」
「おしっこをする時痺れるような痛みがあります」
「朝勃ちで目が覚めます。傷口が開いて死んだかと思います」
「1ヶ月はオナ禁する覚悟でいましょう」
ちょっとした絶望に駆られている私は、小さな自分をもう一度見直した。あれ、玉が大きくなっているような気がする。小さいけどバランスが良いのが取り柄の私の玉が、形を崩している。

「え、まさかだけど、玉いじった?」

「おう。玉大きくするオプションつけといた」

「なんで玉にしたのよ。竿短いんだから竿にしてよ」

「おほほっ。そうやな。竿にすりゃあよかったな。今度来る時は竿やな」

「竿伸ばすためだけの韓国旅行はきついて」

「よし、焼肉食いに行くぞ」

その夜食べた焼肉は、股間が痛すぎて味がしなかった。大人達は痛がる私を笑った。人生最低の焼肉だった。


あれから父の地元などを訪れて、痛みを抱えたまま韓国の色んな街を訪れた。

3月22日。帰国して、名古屋から富山に帰った。早速その日の夜にアルバイトが入っていた。私のアルバイト先は、セルフのガソリンスタンドだった。セルフだから、やってきた車に灯油を注いであげたり、窓を拭いてあげたりする必要はなかった。事務所の中で給油機と連動しているタッチパネルと監視カメラを見続け、レギュラー、ハイオク、軽油を間違って入れようとしている人がいないか確認するだけの仕事内容だった。ほとんどの時間を座って過ごすので、傷だらけの下半身に優しいアルバイトだった。
問題は、締め作業だった。給油機からお金を回収する作業をする時、どうしてもかがまなければいけなかった。かがむのが一番辛かった。うつ伏せで寝ることは論外として、しゃがむのは思っていた以上に股間に負担のかかる行為だった。
しゃがんでお金を回収した後、走り方を覚えたばかりの子猫のようにひょっこりひょっこりと事務所に戻ってくる私を見て、社員さんは不思議そうな表情を浮かべていたが、包茎手術の話をできる間柄ではなかったので、私は何事もないような顔でお金を数えた。



3月24日。次女の姉にちんぽを診てもらった。手術の五日後に抜糸しなければいけなかったのが、父のスケジュールミスで手術を受けた泌尿器科で抜糸してもらうことができなかった。
「一本の糸で縫ってあるから、引っ張るだけで抜けるらしいわ。自分でも抜糸できるかもしれないけど、失敗したらあれだから、お姉さんにやってもらいなさい」と、父は私に言った。姉は看護師だった。オペ室勤務だったから、抜糸は慣れたものだった。私は姉に「こんなお願いしたくないんだけど」と前置きしつつ、抜糸のお願いをしたのだった。
姉の前でテーピングを外した。術後初めてテーピングを外した。顔を覗かせていた部分だけがピンクで、他は信じられないほど限りなく黒に近い青紫をしていた。「え!腐ってしもたかも!」と私が言うと、姉は冷静に「鬱血してるだけだから」と言った。
玉が大きくなったから相対的にそう感じるのか、頑丈にテーピングで縛られていたから縮んだのか、元々短かった竿が明らかに小さくなっている。小さな竿を姉が真顔で見る。ピンセットで糸の出口を探す。
一分が経過した。姉はまだ探す。
三分が経過した。姉はまだまだ探す。

「これ私無理だわ」

嘘だろ。あんたが引き受けてくれたから今初めてあんたにちんぽ見せたのだ。この時間は何だったのか。不毛過ぎる。
そんなことを考えてる私をよそに冷静な姉は言った。

「今から泌尿器科行こう」

姉と近くの泌尿器科へ行くことになった。

泌尿器科に着くと、五十過ぎの医者に状況を説明した。いつも同じような診察ばかりしているからなのか、先生は目を輝かせながら私の話を聞いた。

「ちょっと診させて」

先生に指示されるがままにパンツを下ろした。

「あなた泌尿器科で手術を受けたんだよね?」

「はい。そうですけど、何かありました?」

「これっ凄い。美容整形のやり方で手術してますよ。しかも信じられないほど細かく縫われてる。普通切らない手術だったらね、手術を受けてもね、時間が経ったら皮が戻ってくることがあるんですよ。でもね、これほど細かく縫われてたら戻ることないですよ。いや〜大したもんだ。さすが韓国」

「やっぱ向こうの場数を踏んでる先生の手術は違うんですね」

「そうだねえ…。でもこれ、性感帯死んじゃってんじゃないかな?」

「は、はい?」

「縫われてる場所が諸に性感帯と重なってるんですよ。しかも縫われてる数が多いからね。まあ僕の技術じゃできない手術だから、もしかしたら性感帯だけ綺麗に避けてたりとか、あるいはそれ以外の何かしらの種というか抜け道はあるのかもしれないけど」

「え、まあまあショックなんですけど、これは誰に対してリアクション取ればいいんですか、先生」

そう言いながら性感帯が死んだというエピソードを入手したことに興奮している自分もいた。

「細か過ぎて簡単に抜糸できないから、縫われている部分を一箇所ずつ切って糸を取り出す形になるけどいい?」

「いいですけど、それってまた性感帯死にますよね」

「うん。そうだけどいい?」

「なるべく殺さないようにお願いします」

おばあちゃんナースがやってきて、先生とおばあちゃんナースと私の三人で診察室の奥にあるパーテーションの向こう側に移った。下半身だけ露わにした私がベッドで仰向けになり、先生が縫い目の一箇所ずつから糸を取り出した。
「パチッ」というハサミの音と共に激痛が走る。細か過ぎてテンポ良く切れないようで、先生も慎重に標準を定めながら一箇所ずつ切っていく。「パチッ」と音がする度に私が「痛っ」と声を漏らす時間が続いた。麻酔なしで皮をハサミで切られるのは、術後の激痛どころの騒ぎではなかった。
診察室の壁に掛かっている時計を見たら、既に十分が経っていた。思わず私が「あとどれだけですか?」と尋ねると、「もうちょっとだよ〜」と先生は優しく言った。その言葉に一度は安堵したものの、一向に終わる気配がなかった。時計を見たら、更に十分が経っていた。

「先生、あとどれだけですか?」

「もう終わるからね〜」

「その言葉で僕を落ち着かせようとしてるならやめて欲しいです。本当のこと言って欲しいです」

「多分あと五分!」

先生にそう言われたちょうど五分後に抜糸が終わった。

「お風呂の時コンドーム付けてる?」

「韓国の病院で言われたので付けてます」

「ならよかった。傷口に染みるから気を付けてね。もう一週間くらいかな?しばらくはコンドーム付けててね」

「分かりました」

「じゃあこれで…」

「先生、あの、来週ニューヨークに行って、レスリングのセミナーを受ける予定なんですけど、この状態で参加しても大丈夫ですかね?」

「ニューヨーク?あなた、向こうの医療費がどれだけ高いか知ってるの?ないとは思うけどね、万が一タックル食らって陰茎から大出血なんてしようものなら、一生お金払っていかなきゃいけなくなるよ」

「まあそんな激しいのではないんですけど。レスリングというか、プロレスラーが教えるセミナーで、絞め技とかそういったことをやるんですけど」

「そうか。とりあえず股間を守るガードは必要だね」

「分かりました。じゃあ今日はありがとうございま…あっ、あともう一つだけ聞いていいですか?」

「もちろん」

「射精っていつからしてもいいですか?」

「射精というのは性交渉?マスターベーション?」

普段友達との間で使っている「しこる」ではなく、「射精」という言葉を選んでみたものの、伝わらなかったようだ。それより、医療用語だとセックスは「性交渉」で、しこることは「マスターベーション」なのか。先生の優しい口調から出てきたその言葉は妙に面白かった。

「マスターベーションです」

「あなたは皮オナニー、それとも亀頭オナニー?」

「はい?どういうことでしょうか?」

「手コキでいくタイプ?あるいは亀頭を触っていくタイプ?」

「あ、まあ、やるとしたら手コキですかね」

「じゃあそうだな。五月中旬ぐらいまでは我慢して欲しいな」

「分かりました。ありがとうございました」

「はい、お疲れさん」

「Yahoo!知恵袋で見た、術後のオナ禁期間より一ヶ月も長いのはどういうことやねん」という失望と怒りは口にせず、先生に一礼して部屋を出た。

帰りにスポーツ用品店でファウルカップを購入した。




ニューヨークへ旅立つ三日前。中学時代の同級生が家に遊びに来た。三日後にニューヨークへ行くことや包茎手術に関する一連の流れを話した。

「手術の時さ、手首固定された状態で全裸で放置されて、上見上げたら真っ赤なちんこがドラマとかで見るでっかい電気に反射して映っててさ。マジであの時人生で一番怖かったわ。あれだけ怖い体験したら、もうニューヨークなんて何も怖くないわ」

友達は腹を抱えて笑ってくれた。
まさかあれ以上に怖い体験がニューヨークで待っていたなんてこの時は知らなかった。

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