見出し画像

感情電車 #16 「君がくれた夏」

ニューヨークの旅を終えて以降、プロレスを観る元気がなくなっていた。Twitterを続けている以上プロレスの情報は入ってくるものの、プロレス以外のことにもっと夢中になろうと思っている自分がいた。ニューヨークから帰ってきてからの私が嵌っていたことと言えば、クラスメイトの男子を笑かすことだった。
私の所属する富山高専国際ビジネス学科6期生は50名から構成されていて、そのうちの8割が女子だった。男子学生は9人しかいなかった。入学当初は、女の子の空気に流されて五年間を過ごすのだろうと思っていたが、五年生になった頃には、入学当初の想像の真逆の状態になっていた。たった9人しかいない男子学生の半分以上が女子に嫌われていて、女子から距離を置かれた挙句、男子グループの中で男子校のようなノリが出来上がっていた。私は女学生とはほとんど会話をしてこなかったために、嫌われることも特になかったのだが、どう考えても、女子に好かれるようにするより男子の輪の中にいた方が居心地が良かったので、一緒に悪ふざけをしていた。
ニューヨークから帰ってきて、先に新学期を迎えていたクラスメイトの男子のみんなと会った時、すごく安心した。この日々が一番幸せだったことに気付かされた。この幸せな時間を疎かにして、私はずっとプロレスばかり追いかけてきた。高専生活も残り一年しかないし、もっとみんなと思い出を作りたいなと思った私は、クラスメイトの男子達を笑わすことに力を注いだ。
昼休みにみんなでご飯を食べている時に、昨日ゼミ室で起きた気まずかったことや学校以外の生活で腹が立ったことなどを面白おかしく話して、みんなを笑わせた。みんなが教室に戻ったら、こっそりメモ帳を開いて、今日のあのエピソードトークのこの部分は不必要だった、などとメモを書き込んだ。あいつは誰々に関するネタを好む傾向にある、などとメモを書き込んだ。改善点を踏まえた上で、翌日の昼休みに新たなエピソードトークを披露すると、昨日よりもみんなが笑ってくれた。それが気持ち良かった。
クラスメイトの女子の誰とやりたいかという酷過ぎる会話をしていた時は、「○○さんはやりたいとは思わないけど、エロマンガくらいおっぱい綺麗そうやから見てみたいとは思うな」と言って笑わせた。「あと関係ないけど、○○先生って足腰強そうだからめっちゃ駅弁しそうだよね」と言って、更に笑わせた。クラスの男子の悪い笑顔が私の心を癒してくれるのだった。

学校生活は楽しかったが、プロレスに関しては、一向に楽しめそうになかった。クラウドファンディングを実施した手前、ニューヨークでの体験記や感想をブログに綴ったのだが、現地にいる時はとてもプロレスどころではない精神状態が続いていたため、正直語ることがなかった。現地で興行を観て感じたこと、或いは感じてもいないことを、誇張した言葉を並べることで一つのブログ記事に仕上げようとしている自分に嫌気が差した。だが、お金を貰っておいて、素直に「すみません。楽しめなかったです」なんて書けるはずがなかった。
現地にいる時に届いたフォロワーさんのメッセージに励まされたことや、WWEの第三のブランド・NXTのTAKE OVERを観た時にプロレス興行の完成形に出会ってしまったと思うほど感動したことは紛れもない事実であった。だが、クラウドファンディングのプロジェクト名は、「アメリカのインディープロレスの魅力を日本のプロレスファンに発信したい!」であり、どちらもそれに当て嵌まる内容ではなかった。私は現地で興奮した体で文章を作った。

ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアに参戦しているバンディードの試合をたまたまサムライTVで観た時は、力技も飛び技も何でもできるスタンスの彼が鼻についてしまった。ALL INのメインイベントに出場する彼を観た時に感動した自分が嘘のようだった。



2019年7月7日。私は久しぶりに東京にいた。もはや来慣れた東京であったが、今年に入って初めての上京だった。目指すは新木場1st RINGであった。相変わらずプロレスへの情熱を失いかけていたが、プロレス興行を観に行くのだった。それは卒業研究のためだった。
高専五年の私の卒業研究は、一部のプロレスファンを熱狂させているのに、一向に観客動員数が増えないプロレスリングZERO1の問題点を探るというお節介過ぎるものだった。その日の昼に開催されるZERO1の興行の会場の外でファンに声を掛けて、アンケートを記入してもらうために東京へ行ったのだった。
私の卒業研究の指導教官は、「キムくんは熱量があって素晴らしいね」と褒めてくれていたが、正直もうZERO1への熱も冷めていた。情熱を持っている風を装っているだけの私を見て、素晴らしいと褒めてくる教官を疑うこともあった。
無事にアンケートを回収した後は、試合を観戦した。全く楽しくない訳ではないが、特別楽しいこともない興行が終わり、両国へと向かった。
両国KFCホールという会場でプロレスリングBASARAの興行を観るのだった。BASARAを観に行くのは、卒業研究のためではなかった。私が東京にいる時に阿部史典の試合があるのに、それを観に行かないのは違う気がしたからだった。阿部史典は、私の大好きなレスラーのうちの一人だ。

***
阿部史典の顔と名前が一致したのは確か2016年の春あたりだったと思う。高専一年の頃か、高専二年の頃か、取り敢えずそのあたりで、確かな記憶ではない。
サムライTVの情報番組「インディーのお仕事」内で流れていたヒートアップ王子大会のダイジェスト映像を観ていた時、彼がリングの上ではっちゃけていたのを覚えている。インディーのお仕事を毎回観ていた私は、それ以前にも阿部史典の試合のダイジェスト映像を観ていたはずなのだが、顔と名前が一致したのはその時だった。トップロープを渡ろうとした挙句、足を滑らせて股間をロープにぶつけ、苦悶の表情を象った愉快な表情で大声を出す彼を観て、楽しそうにプロレスをする若者がまたインディーシーンに一人生まれたなと思った。

それから何ヶ月かが経った2016年11月。週刊プロレスのページを捲っていたら、一つの記事が目に飛び込んだ。全日本プロレス横浜ラジアントホール大会で行われた青木篤志&佐藤光留組対岩本煌史&阿部史典組の試合レポートだった。
週刊プロレスには、試合順も会場規模も関係なければ、その試合が団体のメインストーリーに直結する訳ではなくても、カラーの見開きで試合のレポートが掲載される時があった。プロレスファンに戻った記者が興奮のあまり数字を無視して書きたいことを書いているような記事が掲載されることがあった。それはプロレスファンの読者に訴えかけるものがあった。全日本プロレス横浜大会の阿部史典の試合がまさにそれだった。
横浜ラジアントホールという小さな会場で行われた、正直戦う前から勝敗が分かっているような試合なのに、大々的に扱われていた。ブラック・レインの松田優作のように鋭く光る目つきをした阿部史典の写真が1ページ分の大きさで載っていて、記者の試合評を読むと、阿部史典が良かった、と只々書かれていた。躊躇わずに殴りに掛かったらしかった。
インディーのお仕事を観ている時は、おちゃらけている彼の姿ばかりが目に留まったが、これほど無慈悲な表情で青木篤志と佐藤光留に突っかかったのかと思うと感動した。ふざけることを求められた時にふざけていただけで、やらなければいけない時はやれる人間なのだと感動してしまった。たとえそのやらなければいけない時が、観客数が100人ほどで、試合中継がなかったとしても、対戦相手に噛み付いた彼は、週刊プロレスのカラーページの見開きという形でチャンスをモノにしていた。
週刊プロレスのあの記事を真剣に読んだ人がどれだけいるのかは分からない。読んだところで何も感じなかった人もいるかもしれない。しかし、彼と五歳しか離れていない私の心には、しっかりと阿部史典の四文字が刻まれた。少し年上にここまで頼もしいレスラーがいたのかと感動を覚えた。笑顔の印象が強くて気付き難かったが、よく見ると結構怖い顔をしていることには興奮を覚えた。

高専二年の冬休みを東京で過ごすことにした私は、年末年始はプロレス観戦に勤しんでいた。2017年1月2日は全日本プロレス後楽園ホール大会を観に行った。
一番の目的は、癌の闘病生活を乗り越えたジョー・ドーリングの復帰戦であったが、第二試合に出る阿部史典も楽しみにしていた。青柳優馬&高尾蒼馬組対石井慧介&阿部史典組という雑多な対戦カードだった。
試合は、阿部史典が青柳に負けて終わった。試合中図抜けて目立っていたわけではなかったが、胸のすっとするような快さを感じる阿部史典の動きが確かに印象に残った。相手に避ける隙を作り兼ねない回転が多過ぎるソバットや、グーパンチを見舞う前に対戦相手に次に何がくるかを知らせるかのように拳を大きく振りかざす素振りなど、相手を倒すためには無駄な動作が山ほどあるのに、その全てに意味があるように感じられた。
若手選手の試合特有の歯痒さを一切感じることなく、試合の展開を受け入れることができた。自身の見た目に合わない技は一つも出していなかった。投げ技も飛び技もなく、打撃と関節を極める技しか出していなかった。既に自身が目指すレスラー像が確立されつつあることを知れて嬉しかった。
試合後、グッズ売店に足を運んだ。阿部史典の売店はなかった。本当は直接会ってみたかったが、名古屋のインディー団体の若手選手である彼が、歴史ある全日本プロレスの会場ではグッズ売店を出していないことに興奮した。そういうところも好きだなと思った。

高専三年の夏休み。インディーのお仕事で阿部史典の実家にお邪魔して、阿部史典とお母さんにインタビューするという企画が放送されていた。阿部史典の少年時代からレスラーとしてデビューするに至るまでの話をMCの三田佐代子がインタビューしながら聞いていくという運びだったのだが、話がどれもぶっ飛んでいた。もう少し時代が進めばコンプライアンス的な理由でNGを食らいそうな話もあった。こういう人間にこそプロレスラーになって欲しかったのだと、テレビの前にいる私は歓喜したのだった。
その数週間後に全日本プロレス両国国技館大会を観に行った。全日本プロレス年間最大のビッグマッチの第一試合を阿部史典が務めることを知って、これは観に行かねばならないと思った。
チケットは、阿部史典に取り置きしてもらった。二階特別席を一枚注文するDMを送った後、インディーのお仕事を観てファンになったことと当日富山から向かうことを伝えた。自分自身が目立ちたいという気持ちは特になくて、本気で応援している年下のファンがいることを只々知って欲しかった。本人からは驚きと感謝のDMが返ってきた。
大会数日後には、御礼のDMが届いた。「もっと努力して成り上がって上の方の試合を組んでいただけるように頑張ります」というメッセージを見て、その日を楽しみにこれからも応援しようと思った。

それからまた阿部史典が出る試合は本人に取り置きをお願いすることが続いた。

2018年2月17日。ヒートアップ王子大会では、ようやく本人に直接挨拶することができた。名古屋のインディー団体からプロレスリングBASARAに移籍したばかりの彼は、グッズ売店でBASARAの大会チケットを販売していた。興行のチケットを買う訳でもないのに話しかけていいものなのかと一瞬戸惑ったが、私の体は阿部史典の方へと向かっていた。
向こうも一瞬で私に気付いたようで、「そうだよね?」と確かめてきた。「会えると思ってたから一枚だけタオル持ってきたんだよ」と、奥から在庫切れが続いている自身のグッズを取り出してくれた。記念写真を撮ってもらった。
「今日の興行の中でも頭一つも二つも抜けてましたよ」と私が言うと、「いやいやそんな」と真顔で謙遜しつつも確かに口元が少し緩んでいる彼を見た時は、改めてこの人間を応援したいと思った。

その一ヶ月後。大日本プロレス後楽園ホール大会を観に行った時に阿部史典の売店に寄ったら、「ケンゴくん!北都プロレス観に行ってたでしょ!」と言われた。確かに私は帯広と札幌で北都プロレスの興行を観て、新千歳空港から帰ってきた体のまま後楽園ホールにやってきていた。

「何で知ってるんですか?」

「まあね、フォローこそしてないけどたまにチェックしてるから」

自分から北都プロレスの話題に触れておいて、チェックしてることを言う時は少しだけ恥ずかしそうにしてるところが人間味があって好きだった。

「北都プロレスいいよね。俺も何年か前に行ったけど楽しかった」

「え、阿部さん、北都プロレスにも上がったことあったんですか」

デビュー三年目で既に北都プロレスの巡業まで経験していたことを知って尊く思った。

その一ヶ月後、「阿部史典ってレスラー、めちゃくちゃ良いですよ」と以前私の方からお勧めしていたフォロワーさんから「阿部ちゃんが売店で、高専君が二十歳になったらみんなで飲みに行きましょうって言ってたよ」とTwitterで連絡が来たことがあった。
シカゴにいる時は、また別のフォロワーさんが「イベントで阿部さんが『富山高専プロレス同好会っていうアカウントがあるんですけど』と話してた」と教えてくれたこともあった。
自分を面白がってくれる業界人がいることへの嬉しさも確かにあったが、それよりも、自分が面白いと思った人間が自分のことを面白いと思ってくれていることへの喜びが勝った。DMでのやり取りも基本的にチケットの注文に関することだけだったのに、深く話さずとも面白いと思ってくれていることを嬉しく思った。

2019年2月。高専四年の冬には、私がTシャツのデザインに嵌っていることを知ってくれていた阿部史典から新作Tシャツを出すからデザイン案があったら欲しいとのDMが来た。その場で飛び跳ねたくなるほど嬉しかった。私はテスト期間中にも関わらず、勉強そっちのけでデザインを考えた。
閃いたデザインをすぐに形にして、阿部史典に送ると、良いリアクションを貰えた。結果的にそのデザインが本当に商品化されることになった。

三月中旬。包茎手術を終えて、父と父の友人と私の三人で焼肉を食べていた時。痛みとストレスから肉の味を感じられずにいたのだが、スマホの画面に飛び込んできた阿部史典の新作Tシャツの告知ツイートが私の痛みを少し和らげてくれたのだった。
***

BASARAの興行の休憩時間に阿部史典のいるグッズ売店を訪れた。

「おお、久しぶり!」

「お久しぶりです。Tシャツ一枚ください」

「ありがとう。サイズは?」

「一番売れ残ってるサイズで」

「どれも同じくらい順調に売れてるよ」

私の目を頼りにすると、阿部史典の立っている後ろに積まれたTシャツはサイズ別に並んでいて、サイズ毎に在庫の数にばらつきがあったのだが、私がデザインのデータを送ったTシャツについて、このサイズが売れ残ってるなどと明確に言わない彼に優しさを感じた。

「いつもLだったっけ?」

「そうです。Lでお願いします」

「サイン入れる?」

「せっかくなんでお願いします。自分がデザインしたTシャツにサインを貰うことなんてないんで」

「あ、そういやKENTAvs飯伏観た?」

突然の言葉だった。今朝、テキサス州で行われたG1 CLIMAXの開幕戦で、WWEを退団したKENTAと飯伏幸太の公式戦が組まれていたのだった。
阿部史典は、私が蹴りを主として使う選手を好む傾向にあることを知っていた。また、私の推測ではあるが、先月青木篤志が亡くなった日に投稿した、生涯のベストバウトは小学五年の頃に観たKENTA対青木篤志であるという私のツイートを見ていたのだと思う。KENTAは小中学生の頃に必死に応援していた私のヒーローだった。

「いや、観てないです」

「そっか。最近あれだよね。プロレスちょっとセーブしてるもんね」

それも先日私がツイートしたことだった。プロレスへの情熱を失いかけていることと他のことを頑張るべきなのかもしれないということをツイートしたのだった。

「そうなんですよね…」

そう言いながら、大好きな人を悲しませてしまっているのではないかと考えた。プロレスが大好きで大好きでどうしようもない私を阿部史典は面白がってくれていたのに、そんな私がプロレスから距離を置こうとしている今、彼は何を思っているのだろうか。
私がニューヨークへ旅立つ直前、Tシャツのデザインの御礼の手紙を送ってくれた。その手紙に書かれていた言葉を思い出した。

日々プロレスに溺れるケンゴ君に負けないくらいもっと私もプロレスに溺れたいと思います!

BASARAの興行が終わったら、すぐに新日本プロレスワールドに再入会しようと決めた。北村克哉の退団を受けて退会してしまった新日本プロレスワールドにもう一度加入しようと決めた。
あの頃、つまらない日々を彩ってくれたKENTAを応援しようと決めた。今朝Twitterで「つまらなかった」と言われまくっていたKENTAを私が応援しようと決めた。私がKENTAを応援しなくて、誰がKENTAを応援するのか。幼い頃に憧れたヒーローを今こそ応援すべきだろうと思った。

「ちなみに阿部さんはKENTAvs飯伏観ました?」

「ううん、観てない」

人のことを熱くさせておいて、自分は観ていないと言う阿部さんは相変わらず最高だった。



BASARAの興行を観終えた後のバスタ新宿で新日本プロレスワールドに再入会した。必死に応援してきた北村克哉の退団とニューヨークでの失態が重なったことで失ってしまっていた新日本プロレスへの熱を取り戻した。
私は、G1 CLIMAXに出場中のKENTAを必死に応援した。私が小中学生の頃に愛したKENTAへの熱を取り戻していく一方で、新日本プロレスファンのKENTAへの批判は増し続けた。試合数を重ねる度にKENTAへの批判がTwitterに渦巻いた。多くのレスラーは、試合数を重ねる度に、認知も人気も高まっていくのだが、この夏のKENTAは違った。Twitterで「KENTA」と検索しようとしたら、サジェストに「塩」「しょっぱい」「つまらない」と出てくるほどだった。「塩」と「しょっぱい」は相撲から伝わるプロレス用語で、要するに「つまらない」と同じ意味だ。
幼少期にKENTAに惚れていた身としては、悔しくて悔しくてたまらなかった。「つまらない」を使う者もいれば、「塩」と言う者もいるように、皆がそれぞれの言葉を使ってKENTAを語っているのに、総じて彼らはKENTAをつまらないと評価していた。せめて「塩」に統一してくれと思った。お前らが批判の言葉を統一してくれたら、もしかしたらサジェストの第二候補、第三候補に「面白い」や「イケメン」といったポジティブな言葉が並ぶのかもしれないのだぞと思っていた。そんなどうにもならないことを考える度に、そんなことを考えている暇があれば、ファンの私が批判的な意見を少なくするためにKENTAの魅力を発信することが大切だろうと、自分につっこむのだった。
とにかく悔しかった。昔好きになった女性が傷ついていたら助けたくなるようなもので、子供の頃に憧れたレスラーにSNSで批判が集中していたら、助けてやりたいという感情を抱くのだった。私はその悔しさを爆発させるかのように、また、KENTAを助けたい一心で、ブログやツイートを書き続けた。KENTAのG1 CLIMAX公式戦を何度も見直して、KENTAの優れた点をツイートした。過去の週刊プロレスを読み漁って、KENTAが新日本プロレスのリングに上がっていることが業界の歴史的に如何に凄いことであるかをブログで説明した。
私の言葉に触れた人が、少しでもいいから、KENTAを応援してくれたら嬉しいなと思って、KENTAの試合の見所や感想をスマホに夢中で打ち続けた。



2019年3月。三人姉妹の二番目の姉が結婚した。その姉が突然、「8月3日に札幌の式場で結婚式をする」と言い出した。次女はもともと婚姻届を出す半年近く前から「2019年の6月くらいに宮古島で家族だけの小さな式を挙げたいな」と家族に言っていた。六月の宮古島と八月の札幌。時期も違えば、土地は真逆だった。次女曰く、既に札幌の式場を抑えてあるらしい。六月に宮古島へ行く気でいた家族から、次女は静かな反感を買った。
母を始めとする私達家族は沖縄が好きである。特に宮古島は、母が大好きな場所だった。その宮古島へ行く計画が台無しになった母は、かなり怒っていた。東京に住んでいる長女と三女は、仕事で忙しいのに相談なく六月から八月に変更になったことを事後報告されたことに怒っていた。
それぞれに予定というものがあるし、皆が宮古島へ行く気でいただけに、私も次女の急な変更には、いくら家族とはいえ、大人として有り得ない対応だなと思った。母と一緒に暮らしている私は、愚痴を聞かされた。久しぶりに家族間で大きな揉め事が発生するのではないかと、嫌な予感がしていた。
母も長女も三女も不満に思っている。結婚式には絶対に出席しようとしているだけに予定を狂わされて怒っている。しかも、結婚式よりも宮古島へ行くことを楽しみにしていたのだから、余計に怒っている。次女に文句を言う訳でもなく、静かに怒っている。
一方で名古屋で暮らす父は、久々に家族と会えることや娘が結婚することに素直に喜んでいた。
私はというと、次女の対応に呆れつつも、特に怒りもなければ、喜びもなかった。結婚式が開かれる8月3日は、前期末試験の真っ最中だから行けなかった。高専最後の年の重要な試験だ。次女にとっては多分一生に一度の晴れ舞台ではあるが、私にとっても卒業を左右する大切な前期末試験だった。私は試験を優先することにした。
次女のことは嫌いではないが、旦那の何に魅力を感じたのか分からなさ過ぎた。何故これほど楽しくなさそうな人と結婚したのだろうと、正直なところ思っていた。結婚式は別に行けなかったら行けなかったでよかった。
次女は、私が式に出席しないことを知って泣いていたそうだが、知ったこっちゃなかった。



8月2日。金曜日。朝から札幌へ向かう母を見送り、私は学校へと向かった。

昼過ぎにテストが終わった。クラスの男子学生達と食堂で「ねっむ」「うん、眠い」といった、数え切れないほど繰り返したテスト期間中ならではの会話をしていた。
私の通う学科は、一夜漬けで何とかなる教科が多過ぎた。一、二年生の頃は、どの教科も着実に勉強していたが、三年生になると、ほとんどの教科は一夜漬けで乗り越えられることに気付き、四、五年になると、もう一夜漬けすらしなくなった。気持ちは次第に「良い点を取ろう」から「あんまり頑張らなくても単位くらいは取れるだろう」になり、やがて「仮に単位を落としたところで卒業はできるだろう」に落ち着いた。
頑張ってもいないくせに一丁前に眠たがっている私達は、食事を終えたら、学校近くの海に向かうのだった。

「もうすぐテストも終わって、これから夏休みに入るけど、俺らみんな大学の編入目指してるじゃん?みんな編入の勉強やるだろうから、夏休みに一緒に遊ぶなんてことないじゃん?テスト期間中の中休みに入る直前の明日が、俺達にとっての最後の夏だと思うんだよ」

クラスの男子グループのリーダー格的な人物が昨日そんなことを言っていたのだった。こんな口説き文句にノーを突きつけるはずがなかった。通学生だけで昼ご飯を食べて、寮で暮らす仲間も呼んで、四年半一緒に過ごした仲間達と海へ行った。

この海には、何度来ただろうか。
ラグビー部の辛い練習が始まる前に一人で海沿いを歩いたこともあった。日焼けするためにブルーシートを敷いて砂場で寝たこともあった。写真部の新入生歓迎会でBBQをしたこともあった。徳井さんと翔さんと海の中で全裸になったこともあった。
そんな思い出しかない海にパンツ一丁の身を投じた。意味なく堤防まで泳いだり、砂場で相撲をしたりした。
砂場で相撲をしていた時、他学科の男子同級生三人組が学校の方からやってきた。電子情報工学科の陰キャ三人だった。彼らはただ海を眺めに来ただけのようだった。夏の海に飛び込む国際ビジネス学科の五年も、夏の海を眺めるだけの電子情報工学科五年も、手段は違うが求めていることは一緒だった。大切な仲間達との最後の夏を味わいに来ているのだ。

「お〜い!みんな海入らんの〜?」

うちのクラスのリーダーが三人組に声を掛けた。

「入らん!見に来ただけ〜!」

「一緒に入ろうよ〜!」

「でも水着な〜い!」

「え〜、じゃあ俺らに相撲で負けたら入ってよ〜!」

「やだ〜!」

「お前らそれでも男か〜?」

「やる〜!」

如何にもノリの悪そうな三人組が無茶振りに応えてくれるとは、向こうも相当楽しい思い出を作りたかったのだろうか。海水でびしょ濡れの国際男子と上半身だけ脱いだものの私服には変わりない電子男子の対抗戦が始まった。
結果は大将戦で私が勝利し、国際男子の2勝1敗になった。電子の男子達は、「このやろーっ!」と叫びながら、如何にも敗者らしい白いパンツだけ被せたヒョロヒョロな体を海に投じた。
散々笑って疲れてきたところで、みんなで近くのファミマへ行き、ストロングゼロを買った。二十歳になっても笑顔で馬鹿をやれてることが嬉しかった。

「どうする?夜飯でも行く?」

「あーどうせ家帰っても勉強せんし、いいかもね」

「何時にする?」

「じゃあ18時に富駅集合で」

夜も一緒に遊ぶことになった。こういう時の一体感も、四年半の高専生活が築いてくれたのだった。

数時間後、皆で富山駅に集合した。皆一様に既に酔っているかのように皮膚を赤くしていた。前日から約束していたのに誰も日焼け止めを持ってこなかったのは馬鹿だと思った。
どの居酒屋に行こうかと話し合っている時に、母からテレビ電話がかかってきた。

「ちょっと家族からテレビ電話かかってきたわ。出るね」

みんなにそう告げて、私は電話に出た。そこには三姉妹と次女の旦那と母と父の姿があった。父と母が久しぶりに会うことで何か問題が起きないか心配していた私は、少し酔った状態で笑顔で手を振る家族を見た時にほっとした。父と母が一緒にいるところなんて何年振りに見ただろうか。父と母が離婚した後から一度も見ていないし、それ以前もしばらく見ていないような気がする。家族が笑顔でお酒を飲んでいる姿に心の底から笑みが溢れた。
すると、クラスメイトの「キムケン、家族の前であんな笑顔なんやね」という声が耳に届いた。そういえば四年半一緒に過ごしてきたクラスメイトの男子達にも複雑な家庭事情を話したことがなかった。今の笑顔は特別な笑顔なんだよ、と心の中で呟いた。



翌日。目が覚めたらもう昼前だった。昨日はあの後、クラスのリーダーがテキーラを持ってきて、私の大嫌いなショットを始めた。そのせいで今も少しだけ頭が痛い。大好きなクラスメイトであったが、人に酒を強要したがるところだけは唯一直して欲しいところだった。
そういえば、そろそろ札幌では次女の結婚式が行われるのだった。結婚式の前は何かと忙しいだろうし、特に家族と連絡することなく、昨日の笑顔を見て安心し切っていた私は、何も心配せずにKENTA対SANADAの一戦を観て、試合の感想をブログに書いていた。
すると、母から電話がかかってきた。

「もう本当有り得ないわ。みんな有り得ない」

明らかに怒っている母の声が聞こえた。冷静を保てなくなると富山弁が抜ける母が標準語で喋っていた。事情を聞くと、父が次女の結婚式に纏わる費用を全て捻出していたらしい。相手方の家族の交通費、式場のお金など、色々出していたらしい。
母が怒るのも当然だった。九年前、父は母に借金を背負わせた状態で「好きな女ができた」と一方的に離婚を迫ったのだった。今回結婚式に出席した母の旅費は、全て母が自分で捻出したのに、そんな父が母の旅費も出さずに結婚式場の費用やら相手方の家族の旅費まで出していたと知ると、怒るのも当然だった。
その事実を知った母は、相手方の家族もいる前で怒鳴り散らかして先にホテルに帰ってしまったらしい。難しいところである。そのくらい自分の感情に従って生きる母には天晴れと思うが、何の罪もない旦那側の家族にまで醜態を晒したというのは如何なものかと思った。
その後、姉達からも同様のようなことがあったという説明を受けた。姉達は、「あの怒り方はありえない。気違いだ」と言っていた。この家族の揉め事の板挟みになる感覚を久しく忘れていた。また私がやり場のない怒りを覚えるのか。



8月3日。日曜日。夜に母が富山の自宅に帰ってきた。母は電話の時よりも冷静を保っていたが、相変わらず怒ってはいた。私に散々愚痴った後、「でもね、私だって怒りたくはなかったんだよ。パパには感謝してるんだよ。娘三人が内カメラで写真撮ってた時ね、式場のお姉さんが『綺麗な娘さん達ですね』って言ってくれたんだけど、その時パパがね、私の方を見て、一言だけ『ありがとう』って言ってくれたの。その時辛かったことの全てが報われたような気がしてね、だから本当は私だってあの空間のままいたかったんだよ」と鼻を啜りながら話した。
母は続けて私に言った。

「来週末は予定通り姉ちゃんところ泊られ。恨んだりしないから」

私は来週、KENTAの応援をするために東京へ行くのだった。



8月10日。日本武道館に着いた。G1 CLIMAXの開催期間とテスト期間が被っていた中で、唯一余裕を持って会場へ駆けつけることができたのが、日本武道館で行われる最終公式戦のザック・セイバーJr戦だった。
ノア時代のKENTAを生で観ることがほとんどできなかった私が、かつてのノアのホームであり、KENTA自身も数々の名勝負を生んできた日本武道館で、KENTAの試合を観られるというのは、胸に来るものがあった。しかも対戦相手は、ノアで育ったザックだった。

KENTAがザックの関節技にギブアップをした時は、強い脱力感が押し寄せてきた。ここ数日の私的なモヤモヤする気持ちと、世間のKENTAへの評価に対してモヤモヤする気持ちの両方をKENTAに感情移入しながら試合を観ていた。KENTAが勝てば何でも良かった。
負けたKENTAには思わず溜息をついてしまったが、今年の夏一番の、誰にも文句を言わせないような強いKENTAを観られたことが救いだった。最終的にはギブアップをした訳だが、ザックを蹴り倒していたKENTAの姿は、かつての私が憧れた逞しいKENTAだった。

その夜、三女の家に泊まった。札幌であった色んな話を聞いて、相談に乗った。三女は「ごめんね、関係のないケンゴにこんな話して」と言っていたが、強いKENTAを観られた満足感から、重い話を聞いても、割と気分は晴れやかだった。
相談に乗った後に、母が父に「ありがとう」と言った話を姉にすると、姉は涙を流して、「そっか」と言った。



KENTAの最終公式戦を見届けた翌日。後楽園ホールで青木篤志追悼興行を観た。KENTAの公式戦に並ぶほど絶対に行きたいと思う興行だった。
阿部史典は、野村卓矢と組んで、佐藤光留&和田拓也組と戦っていた。この日お披露目された阿部・野村組の入場曲、尾崎豊の「十七歳の地図」がやけに頭に残った。試合は阿部史典が負けてしまったものの、贔屓目なしに面白かった。

試合後は、勿論阿部史典の売店へ行った。

「今日の試合本っ当に良かったです!」

「お、マジで!青木さんが黙っていられないような試合したかったからね」

「あとこれ、阿部さんに言うのもどうかと思うんですけど、阿部さんのおかげでKENTAとプロレスへの熱取り戻しました」

「おっ、再熱した?よかった!」

再燃を「再熱」と言うところが彼らしいなと思った。

「野村!この子ね、すげえ変態なんだよ。IGFのNEWとか、ビッグマウス・ラウドとか、変態なプロレス好むんだよ」

「へぇー」

興味なさそうな野村卓矢と楽しそうな阿部史典の温度差が素敵だった。

「じゃあまた来ます!」

「ありがとねー。あ、そういえば二十歳になったんだよね?Twitterフォローするね。今度酒も呑みに行こう!」

「そうです、なりました。是非お願いします」

未成年はフォローしないという自分ルールを設けていることに感動した。やっぱり私の大好きな人だ。

感謝してもし切れない大人がまた一人増えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?