リアリズム あるいは記憶の再編

先程、わたしの母の終戦頃の体験談を書き留めた。
かなり乾いた、感情の起伏が見えにくい語りで、読む方は戸惑われたかもしれない。身内ときて彼女の性格を知っているので、わたしは、「記憶にある通りに語っているのだろうな」というリアリティを感じていた。

単一のエピソードを振り返るからこその、シンプルさのおかげでもあろう。
起承転結もない、時間経過もない、「点」の語りなのである。

それに対して、例えばわたしの父が語る戦争体験は、もっと筋があった。終戦時に小学5年だった父は、それだけ「成長」していた証拠なのだろう。……が、その語りも、エピソードのつなぎ合わせの域を出ていない。
その点で、当時中学1年生だったという、あのシュンくんの語りの壮大な筋の通った出来栄えに、感心していた。
しかし、8/20の大阪駅でのツイートに、あれ?となった。
急にリアリティが崩れたのだ、この時にも世界観がまだ保たれているのに。

具体的にいおう。次のふたつの言葉が、8/20の段階では、理屈が成り立たないのだ。
『復員兵』という言葉があった。復員と言っても戦地からの復員もあるし、国内の部隊からの除隊もある。だが、仮に国内からでも終戦5日目で除隊の手続きが済むのか?……わたしの知るいくつかの部隊の記録では、9月入ってからに除隊の式が行われている。
また、『戦勝国民』との形容があった。終戦5日目、朝鮮や台湾の人たちが、法的にどのような扱いになるかも不明な時期だった(また、『戦勝国民と見なされ、GHQへの忖度で捕まえられない』という噂が立ったのは、半年くらい後からだった。
いずれも、『その日』になかった言葉・概念で記憶を説明しているのである。

ここで、皆さんに振り返っていただきたい。ものを覚える時に2種類あることを。ひとつは情報を丸々覚えるやり方、もう一つは覚えるべきものを一度整理してから記憶するやり方。

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