海溢レル……あの時・今・その時

『今日の勤務後、歩いて帰ることにしよう』
午前の休憩中に、ふと思いたち、記事を作っていこうと思います。
あの時は、2011年3月11日の震災
今は、2021年3月11日
そして、その時は、同じ3月11日同刻に起きたと設定しての、東南海地震の想定です。

【その他設定】
住まいと勤務先
あの時には、東京足立区に在住。家電メーカの販売促進員(営業部門)として、横浜へルート営業の日でした。
今(とその時)は、三重県四日市市在住。市内のコンビナート(午起地区・通称第二コンビナート)付近の事業所で工員をしてます。

15:00
あの時は、先輩営業マンSさんと同行し、東京都心から出張し、横浜港北ニュータウンのショッピングセンター内の家電量販店へ入ったところでした。横浜市内の別の店に立寄り『飾付け』(展示商品に販促用のステッカーを貼る等)をして、30分ほど前に到着。遅めの昼ごはんを食べているところへ、地震(震度5強)。屋外へ出たところ、立体駐車場のスプリンクラーが故障、泡の消火液が降ってきて、目に入ってしまい痛い。
余震が止んだ後、お店へ入らせてもらう。翌土曜に行う販促行事のセッティングを始めた……。

今日、午後の休憩に入る。午後3時前に地震が起きたとして、徒歩で帰宅することになるけど、どこから帰るのだろう?とふと疑問持つ。東南海地震があると、当地には津波が来る。最大10mの見込みとされており、海岸部の工場・コンビナートからの避難場所には、数キロ離れた緑地公園が指定されているのを思い出した。……そこからの帰宅としよう。自宅までの距離は4.2km。

15:20
あの時、量販店に並ぶ大型テレビに、太平洋沿岸に津波警報の赤表示が映る。見慣れない異様な画面だった。
ほどなく、ショッピングモール管理室から、建物全体を閉鎖するので出てくださいと指示され、退店。明日の販促行事は中止だな、と営業所の課長と電話連絡。

18:25
あの時、どこをどう通っていたのだろう?おそらく相模原辺りだと思うのだが……。課長からは、「帰宅を諦め、適当な宿をとり休んで」と指示を受けて、2時間は走っている。宿なんてないし、ようやく通ったラブホテルも停電で休止。課長に連絡しようにも、電話も通じない。週末ということもあり、渋滞に巻き込まれる。

今日。勤務終了。勤務中に万歩計のカウントが22000歩を越えてる。疲れた。作業着から着替え、けれど靴は作業中の安全靴にする。底に鉄板を敷いている重いものだが、津波避難となれば、履き替えてる暇がない。避難場所からもこの靴で帰るのだから。

海岸部の工業地帯から公園までの道のり。見かける危険・障害物になりそうなものが多い。
・送電鉄塔・変電所……これらが傷むと、辺りは停電する。

・産業道路(旧国道)……海岸線に並行するので、山手に逃げるには信号を待たされる。交通量が多く、2分は待った。
・踏切……私鉄幹線(近鉄名古屋線)も越えないといけない。特急も含め、上り下り合わせると2分に1回は遮断機が降りる。そういえば、鉄道の信号電源が落ちると、遮断機は下がったままになるんだっけ?……そうなると怖くて渡れないな……。

18:50
今日、とある交差点通過。標高の表示が目安の10mをようやく超えた。

19:07
今日。指定避難場所の緑地公園につく。職場から40分強の歩き。
コンビナート付近では、数千人働いている。これだけの人が退避するには、相応に広い場所が必要なので、これほど遠くに指定されているのだろう。
市役所の一般的な説明では、東南海地震の場合、地震動から津波の到来まで1時間程度となっている。歩くだけで40分かかる場所へ、支障なく避難できるのだろうか?

19:25
あの時には、この頃に、Sさんが諦めて、ご自宅へ向かうと決められた。横浜方面から北東へ、多摩市内へ向かう……。

今日。避難場所の緑地公園から、自宅方面へ歩きだす。眼下に、コンビナートの夜景が見渡せる。
このコンビナートは、昭和40年代の埋立地にある。前回の東南海地震(1946年)や濃尾地震を経験していない埋立地だ。この2つの地震で、四日市市街で震度6の揺れだったという。そして、海岸部にあった紡績工場や旧コンビナート(海軍燃料廠の跡地。こちらは埋立地ではない)では、煙突が倒れたと記録にある。
そこへ津波が来たら……海岸部のコンビナートは混乱の極致となる心配がある。まして、石油化学コンビナートと、石炭ヤード(輸入した石炭を在庫するための『倉庫』。ただし屋外である)が隣り合う。そんな可燃物のカタマリなのだ。

19:55〜20:10
あの時。多摩市内に入る辺りで、停電域から抜けた。冷酷な落差が印象に残っている。
今日。2つの川を相次いでわたる。この辺りの堤防高さは約7メートル。津波の予想高さとほぼ同じなので、災害時にどんなふうになるかは、ハザードマップを確かめないと……。

20:17
あの時。
多摩プラーザ駅着。
駅前の、パチンコ屋さん、吉野家、スーパ銭湯だけがまばゆい。パチンコ屋さんは営業を終えているようなのだが、中には腰掛ける人が見られる。

今日。徒歩帰宅を完了。4.2kmを52分で歩けた。 10年前のあの日と同じように、駅前の吉野家に入り、ひとりゴクローサンをやります。

22:00
あの時。隣のスーパー銭湯に入る。大きな地震で、近くには停電している場所もあるのに、お風呂に入れるのがありがたい。脱衣所のテレビが、気仙沼上空からの中継映像を流しているところだった。住宅が燃え上がりながら、流されている……。溢れる海、溢れる水にとどまるところがない。
一方で、原発は、……女川も、福島第一,第二も地震動の直後に停止動作に入ったという。「最悪の事態は免れた」
正直、そう思った。
まだ、そこから何が起きるか、あまりに無知だった。

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