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川柳で若い世代にエールを送りたい 23/8/27

1.川柳の一言コメント

「走馬灯回る溢れる父母の愛」

 走馬灯は回り灯籠のことで、枠を内外二重に作り、内枠に描かれた絵が外枠に貼った紙や布に回りながら映るように仕掛けた灯籠です。昔は子供向けの玩具として夏祭りの屋台などで売られているのを見ましたが、最近はあまり目にしません。

 最近は、影絵が回る様子を自分の過去に重ね合わせて、「思い出が走馬灯のように脳裏に浮かぶ」という風に表現することもあります。私も寝床で、思い出が次々思い浮かんでなかなか寝付けない事があります。

2.私の経験で思う事

 今となっては私の記憶があやふやですが、両親は、私が35歳位の頃に父が72歳で、私が55歳位の頃に母が84歳で亡くなりました。もう、随分前の出来事ですが、しかし、今でも両親の夢を時々見ます。

 両親の話をどのようにするべきか、私にとっては難しい問題です。と言うのも、両親は夫婦仲があまり良くなかったのです。特に私が子供の頃はひどい状態で、朝昼晩、顔を合わせるたびに口喧嘩をして、激しいときは父が暴力を振るいました。

 夫婦喧嘩は近所でも評判でした。私は兄と妹の三人兄弟ですが、子供が喧嘩を止めに入っても、二人とも聞き入れませんでした。母の実家は同じ市内にありましたが、父に「出ていけ」と怒鳴られて、母が実家に戻る事がしばしばありました。

 私の両親の世代は、太平洋戦争の戦禍を潜り抜けてきた世代です。父は、今で言えば高校生の時、祖父(父の父親)から「学校へ行かせてやっている」と恩着せがましく言われるのが嫌で、17歳で海軍の志願兵になりました。

 子供の頃に父から聞いた話ですから詳細は分かりませんが、父は軍艦の砲兵をしていて、部下二人と三人一組で任務に当たったそうです。部下の一人が砲弾を運び、もう一人が砲弾を大砲に詰め、父が大砲を撃ったそうです。

 敵の戦闘機が機銃掃射しながら艦の上空すれすれに飛んでくるところを、父が撃ち落としたそうです。機銃掃射の弾を、父は大砲の陰に隠れ、部下の二人は盾で凌いだそうですが、凌ぎきれずに部下が戦死する事が何度もあったそうです。

 ある時、爆弾をすぐ近くに落とされて、父は電柱の3倍ほどの高さまで吹き飛ばされ、そのまま海に落ちたそうです。両足の感覚が無く「やられたか」と思いつつ、海の中で手で足を探ると付いていたので、腕だけで泳いで味方に助けてもらいましたが、乗っていた軍艦は沈没したそうです。

 陸上で、敵の首を日本刀で切り落とそうとした話も聞きました。時代劇の切腹シーンで、切腹後に介錯人が首を切り落とす場面がありますが、あれは剣の達人でないと出来ないそうです。

 刀を引いて切ろうとすると、刀が頸骨で止まってしまうので、斧のように打ち下ろして切らないと首は落とせないそうです。実に生々しい話でした。

 「お父さんは敵を何人やっつけたの?」と、尋ねたことがありましたが、父は当然「分からない」と答えました。しかし、その数が一桁でない事は確かで、「戦争は敵を殺せば殺すほど褒められるんだ」と私に話しました。

 母の戦争体験談としては、武器製造の為に鉄を溶かす作業に従事していた頃の話を覚えています。溶かした鉄を鉄鍋のような物に入れて、二人で手作業で運んでいて、小さな鉄の雫が飛んで足に落ち、火傷を負ったそうです。しかしすぐに鉄鍋を下ろす訳にいかず運び終えてから鉄の雫を取り除いたそうです。

 またある夜、仕事を終えて自宅に帰るとき道に迷ったそうです。真っ暗な道に差し掛かり、狭い道を手探りで歩いていると、道の左右に木の箱を積み上げたような物があって、ぶつからないように箱に触りながら歩いたそうです。後に、その箱は棺桶を積み上げたものだったと分かってぞっとしたそうです。

 空襲で逃げる話だとか悲惨な体験談をいろいろ聞きました。そんな修羅場を潜り抜けて生き残り、戦後、両親が結婚して私たちを産み育ててくれたのです。

 子供の頃、父の仕事は不安定で何度も転職しました。漁協の職員、ガソリンスタンドの店員の他に、友達と一緒に何かの事業を始めようとして失敗した事もあったようです。父は「日本が戦争に勝っていれば、軍人としていい暮らしが出来たのに・・・」と、何度か私に話しました。

 その頃、母も自宅で雑貨屋を開いていましたが、ほぼ収支トントンで生活費の足しになるかならないかと言う程度でした。私が子供の頃の母は病弱で、外に勤めに出るのが難しかったようです。

 父は最終的に危険物取扱業者の資格を取って自営業者になりました。最初は石油だけでしたが、プロパンガスとガス器具を取り扱うようになった頃から生活が安定してきました。

 夫婦喧嘩はずっと続きましたが、子がかすがいになったのか、お互いに我慢を重ねて離婚する事なく生涯を終えました。子供としては、殺伐とした家庭の中で暮らすのは辛かったのですが、それでも離婚せずに耐えてくれたことは子供に対する愛で、今となってはありがたかったと思っています。

 夫婦仲が悪かった両親も子供には優しく接してくれました。また、晩年はお互いに角が取れたからか、喧嘩するのが馬鹿馬鹿しくなったのか、生活が安定して余裕が出来たからか分かりませんが、喧嘩の回数は激減しました。

 両親は大変な時代を生き抜いて、子供三人を高校に通わせてくれました。
私は仕事が合わずに苦しんで生きてきましたが、両親の苦労に比べれば私の苦労は苦労と言えない軽いものです。父から見れば、私は根性無しの軟弱者でしかないでしょう。

 子供の頃は、家族団らんの楽しい思い出より、夫婦喧嘩で両親が激しくいがみ合っている思い出の方が圧倒的に多いです。しかし、楽しい思い出が全くない訳でもありません。小学校の授業参観や運動会に両親が来てくれたこともありました。

 いずれにしても、両親が居たから私が今ここで生きている訳で、ありがたいと感謝しています。高齢者になった私は今、「両親の人生は幸せだっただろうか」と時々思います。

 戦争という、自分ではどうする事も出来ない時代の大きな波にもまれて、両親はそれでも懸命に生き抜いたのです。日本が平和になり、家庭的にも落ち着いて、両親の晩年は穏やかに過ごす日が多かったので、「終わり良ければ全て良し」としておきたいと思っています。

3.瀬川さんの絵

 漫画家の瀬川 環さんが、この川柳からイメージした絵を描いてくれました。

走馬灯回る溢れる父母の愛

 私は、瀬川さんから直接、瀬川さんのご両親の思い出を聞いたことがありません。でも、この絵から推測すると、瀬川さんのご両親は私の両親よりも夫婦仲が良いのではないかと思います。

 また、普段の生活の中でご両親の愛情を感じられる場面が、幾つもあったのではないかと推測します。子供にとっては、ごく普通の生活を親と一緒に過ごすことが出来れば良くて、それがやがては、かけがえのない時間になるのではないでしょうか。

 世の中には、子供を育てるのが困難な状況の大人が居ます。私も仕事が合わないと思い続けていたので、結婚や、更にその先の子育てをしようという気になれませんでした。

 しかし、「そうは言っても歳をとるから、どこかで決断しなければならない」と考えて、見合いをしたり、恋愛して求婚した事もありました。でも、心のどこかに中途半端な部分があったので、結果がうまくいかなかったのだと思います。

 結婚して子供が生まれても離婚する人がいます。人それぞれ事情は様々です。今は、昔より離婚のハードルは低くなっているでしょう。子供のために無理して嫌な配偶者と一緒に暮らす必要はありません。

 子供にとっては、両親と一緒に暮らせる方が良いと思いますが、それも、どんな親かにもよります。子供を大切に考えてくれない親なら、離婚した方が良いケースもあるでしょう。

 私は人の親になれませんでしたが、一般的な大人として子供にできる事があればしたいと考えています。

 

 

 

 


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