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面白い奴になるには

面白い奴になるにはどうしたらいいのか。
僕はたまにそんなことを考える。
僕なりにも結論ではないにせよ考えがあるので書いてみる。


「面白い奴」というと

「強いボケができる」とか

「人前で目立てる」とか

「話すだけで周りのみんなを笑わせられる」とか

いろいろあると思う。
しかし面白くない奴がいきなり面白い奴になるには
上のどれを目指してもすぐにはうまくいかない。

結論からいうと僕が思う手っ取り早く面白い奴になる方法は1つ。


「ツッコミができる奴」になることだ。

極端な話
「ツッコミができないやつにボケはできない」のだ。


順を追って話をしよう。


ツッコミとは何か考えるとそれは“指摘”である。

感じていた微妙な違和感を客観的に指摘されるとなぜか面白くなる。
この原理を深く考え始めると「笑いとは」という超難問哲学に入ってしまうので一旦置いておこう。

笑いとは緊張と緩和とも言われるが
上に示した「違和感とその指摘」が笑いのメカニズムだと仮定した時
違和感とはボケ、指摘とはツッコミである。


ではなぜ「ツッコミができる奴になること」が大切か。
大きな理由が2つある。

1つ目は「笑いのきっかけは基本的にツッコミ」だからである。

具体的な例をあげると

飲み会で目の前にいた友人が着ていたジャケットを脱いだとする。
その直後にまたそのジャケットを着なおしたとしよう。
本人にしてみれば脱いでみたらエアコンの真下でちょっと寒かった、
くらいの理由だと想像できる。
別に指摘する必要もない日常風景である。


しかしここに
「なんで一回脱いでん」の指摘が入ると
違和感と指摘、すなわちボケとツッコミが成立する。

周りの空気や状況により笑いが起こるかどうかは別として
違和感と指摘、すなわち笑いが起こる可能性ができたのだ。

これは全くもって難しい指摘ではない。

目の前で起こった出来事に純粋に思ったことを言っただけである。
それだけで笑いが起こる可能性が1つできた。

しつこく繰り返しすぎたりすると「細かい奴」「いちいちうるさい奴」に
なってしまうので限度はあるにせよ
笑いを生み出すという意味で指摘(ツッコミ)は一つの答えである。

この時、少し想像いただきたいのが
ここでいうレベルの違和感は
「日常生活や会話の中で溢れまくっている」
ということである。

要するにわざわざ誰かがボケる必要もないほど
世の中には指摘できる違和感がたくさんある。

この例にわかる通り
ツッコミがなければその違和感は笑いにならない。
言い換えればツッコミさえすれば笑いになる状況は無数に存在する。

これが1つ目「笑いのきっかけは基本的にツッコミ」である。


2つ目の理由は
「笑いになる違和感を認識できるようになる」

これはとても重要なことである。

1つ目であげたジャケットの例にとると
あの状況を違和感があると認識して初めてツッコむことができる。

これはどういうことか、
すなわち
ツッコむには「笑いに変わる違和感を見つけ出す能力」が必要なのである。

状況により変わるにせよ
その違和感が指摘により笑いに変わるものなのか否かを
見極める能力が求められる。

この能力を持っていると
「笑いに変わる違和感を自ら生み出せる」、
すなわち
「ボケられるようになる」のである。


違和感を見極められらないまま
笑い欲しさに安直にボケる奴がいる。
(この場合ボケでさえない)

変にボケて、変に目立って、笑いも起こらず変な空気になる。
こんな奴を目にしたことがない人はいないであろう。

その原因は
指摘できる違和感をそもそも認識していないことにある。

これこそ冒頭の
「ツッコミができないやつにボケはできない」なのである。


笑いに変わる違和感かどうかを見極める。


この能力を養うためには、違和感を見つけ指摘し面白いかを確認する、
要するにツッコミまくって面白いかを見極めるという訓練が必要であり
面白い奴を目指すための第一歩はここにある。

これが「ツッコミができる奴になること」が大切な2つ目の理由
「どこが違和感なのかが認識できるようになる」なのである。


無論、場合によっては指摘なしでも笑いは生まれるが、
それはもっと後の話。
世の中には「面白い=ボケ」としか認識せず
ツッコミを蔑ろにする奴があまりに多い。

関西弁にある「なんでやねん」という言葉に代表される通り
ツッコミとは笑いの本質の一片であり、
これを理解せぬまま面白いやつ奴にはなれない。

是非今この瞬間から世の中の違和感を指摘し
それが笑いを産むかどうか確認してみて欲しい。

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