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誰からも祝福されない誕生日に果たして人は「意味」を見いだせるか

 これを書き終える頃には日付が変わっているかもしれないが、これを書き始めた現時点で、今日は誕生日であった。

 どんな一日だったかというと、寝る前に月曜更新のジャンプを翌朝まで我慢できずに読みだしたせいで、寝る時間が狂い始め、なんとなく目と頭が痛いなあ、と嫌な予感を感じつつ眠りについたわけだが、案の定、寝覚めが悪い。

 週明け早々に仕事を休む。私が仕事を休むときの基準を例えるなら、一般的には、出勤しても「仕事にならない」から休む、というのが欠勤における妥当な基準であると仮定するなら、私は「昨日調理中に、包丁で誤って少し切った指先が痛い」から休む、というぐらい、痛みや怠さに耐性がない。もし、誰かと体を交換できるとしたら、「え、こんな体ピンピンしてるのに休むの!?」と驚愕されることだろう。それくらい私の精神は軟弱であり、かつ、芯がない。

 もうこんな感じで学生の頃から生きてきているので、おそらく死ぬまで治らないのだろう、と軽く失望はするものの、こんな調子で、のらりくらりと生きてきたので、「まあこの先も大丈夫だろう」と、高を括っている。


 そして、表題の件。例年通りといえば例年通りなのだが、今年は殊更「誕生日おめでとう」という言葉をもらえなかった。リアルとバーチャルを足しても3人しか友人がおらず、その友人らに誕生日を教えていないのだから当たり前といえば当たり前なのだが。

 誕生日とはそもそもなんなのだろうか。誰からも祝福されない誕生日。そんな日を経験すると、ある疑問が浮かび上がる。

 誕生日そのものが、自発的に、自己完結で祝福されるということは、まずない。残念ながら、私は私があまり好きではないし、この人生は、あってもなくてもよかったのではないか、とさえ思う。私以外の誰かに、この席を譲れていたのであれば、そちらのほうがまだ有意義に使ってくれたのではないかと思う。

 感傷に浸りたいわけではない。ただ、誰からも祝福されない誕生日、というやつを、己自身で祝福できるやつなど、この世にいるのだろうか、という疑問と、であるなら、他者からの言葉や贈り物を貰って初めて「うれしい」「生まれて来てよかった」と感ずるのだとしたら、それは、誕生したこと、そのものの価値というよりも、「何かが与えられる日だから」という、本来的な意味合いとは別の価値を感じて、誕生を喜んでいるのではないか。

 他者がいなければ成立しない、「誕生日」。他者を介さなければ、見えてこない「誕生」した意味。

 もしそれが「誕生日」が喜ばしいとされる由縁なのだとするなら、そこにはなにか、一抹の虚しさを感じてしまう。

 「誕生日」とは本来なんなのだろうか。

 誰からも祝福されなかったからこそ、誕生したこと、そのものの価値と向き合わされ、戸惑いを覚えた。

 私はこれで、三十二になった。

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