「玉三郎と菊五郎の対談」
家にある古い雑誌などを整理していたら、
面白い記事を見つけた。
これは梨園の坂東玉三郎と
尾上菊五郎の対談なのだが、
こういう文章を読んで
素通りできない自分がいる。
なにげない対談ではあるが
舞台人にとってとても大切な、
鍵の部分が示されているのではないだろうか。
学べるものって、
身の回りにいっぱいあるのだなあ・・・
忘備として
ここに転載しておくことにする。
-------------(以下は雑誌からのコピペ)-------------
※ ※ ※ ※ ※
<玉三郎>
『京鹿子娘二人道成寺』の(中略)最初に金冠烏帽子を着けて出てきたとき
(中略)あの「花の外には松ばかり…」で始まる一節は、「時が過ぎていくのはむなしいですよ」と言っているのね。具体的には、女の美しい時は過ぎていくということ。恋愛だったり、肉体だったり。
この「時が過ぎていく」という土台がまずあって、烏帽子を取った後の具体的な恋の様子になり、その後、「東育ちは蓮葉なものじゃえ…」から、抽象的に廓の名所を唄っていくでしょう。廓には、女のいろいろなドラマがあるのね。「撞木町」とか「仲は丸山」とか、次々に廓を並べていくと、お客様は、女たちがそこで悲しい思いをしたんだということを、ひとつずつトーンを変えた形で観ていくことになる。
お能でも長唄でもそうだけど、和歌は言葉遊びだからね。[中略]だから自分で考えていかない限り、意味なんか生まれないの。『道成寺』も、花子の一生を踊りにしたわけじゃなくて、心情を踊るもの。日本の芸能はプロセスより、魂を凝縮して表現するものが多いんです。
女が烏帽子をかぶって出てきて「諸行無常と響くなり…」と踊っているのを、もしも若い時が過ぎたご婦人が観ていて、「ああ、無常だな」と自分の気持ちにリンクしたら、素晴らしでしょ。だから、そこで空気を止めたらだめ。「私のはこういう花子です」と固めて出ていったら、「へーえ、じゃあ私とは違うわ」ってそっぽを向かれてしまう。そうではなくて、こちらから「こういう花子ですか?」と聞いてるんだよね。そうすると、お客様それぞれの中にある花子が立ち上がってきて、息が合った瞬間に、一緒に瞑想の次元に飛んで行くことができる。[中略]
そうやってお客様が自分の気持ちにリンクさせていけるようになれば、最後に花子が鐘に登って幕になるのなんて、わけが分からない終わり方なのに、「ああ、何だか分かるわー」と思ってもらえるの。
<菊五郎>
伺ってると、とても自由な感じがしますね。僕は歌詞の理解にしても、言葉の意味が分かったところで、想像も止まってしまって。
<玉三郎>
飛躍していかないと。言葉のひとつひとつを膨らませていって、感覚のしりとりみたいなことでいいからさ、飛んで行けばいいんじゃない? 「諸行無常と響くなり…」を聞いて「ああ、平家物語か」でも「アメリカもいつかはだめになっていくんだなあ」と思うんでもいい。それを花子の気持ちにつなげて「何十年か後には、ここにいるお客様も私たちも、この世にはいません。だからこの瞬間をお互い楽しみましょう」という気持ちで、お客様と対面していく。硬くなっていたら、それができないでしょう。[中略]
あなたは真面目な人なんだよね。だから、何か言われると、そこをちゃんとやらなきゃと思って、ひとつのことにこだわってゆく。それを「やめなさい」って言うと、今度は完全に止めちゃう(笑)。[中略]
だから言うのをやめてほったらかしておくと、また考えてるんだよね。真面目に。[中略]
あなたはね、元来素晴らしい感覚を持っている人なんだけど、その部分と「舞台でちゃんとやらなきゃ」と真面目に考えている部分が。まだ接続されていないんだよね。これが接続されたら、もっとずっと飛躍すると思う。今まで真面目に勉強してきたことと、自分自身の好みとは、別物だと考えてない?
<菊五郎>
考えていると思います。
<玉三郎>
そうでしょ。そこです。いわばソフトはいいものがたくさん入っているんだけど、まだコンピューターが起動しない状態ね。ソフトは一個しかなくても、ネットにつなげば、他のものをどんどんもらってリンクしていけるのに、それをしないで、自分でソフトをせっせと増やしている。
(坂東玉三郎『日経ヘルスプルミエ』2008.05.対談より p.112-115)
(写真は日本橋明治座の定式幕、2014年撮影)
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