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「春日さす」 02

(承前)

(玉枝夫人宛)
『玉枝、俺はもう
 再び帰ると思ふな。
 気丈夫であれ。

 今後必ず玉枝が一家を背負ひ
 子を育てて
 一家の柱ともなるべきことを自覚せよ。

 決して未練がましき気持を起す勿れ。

 肉体は死すとも
 魂は永遠に生きむ。

 暉美を女らしく、
 祖父母を大切に、
 よい子供に育てよ。

 靖國に父あり、
 なほ生まれ生づべき子も
 丈夫に育てよ。』


(弟宛)
『友吉、
 自分の年と
 家の事をよくわきまへ、
 両親の言ひつけを聞き、
 両親に心配をかけぬ様心掛けて、
 よく働きよく勉強をしなさい。』

(野村玉枝『雪華』より)

※ ※ ※ ※ ※

上記の手紙は
召集された野村玉枝の夫
野村勇平の手によって、
出港地神戸から上海呉淞へ渡る途上、
輸送船の船上で書かれたもの。

そして
(第二次)上海事変における激戦地
「大場鎮」への総攻撃が行われた
10月26日のちょうどその日に、
両親、妻、末の弟の許に届けられた
三通の遺書である。

この遺書を受け取った玉枝は
次のような歌を詠んでいる。

  玄海の灘の潮鳴(なり)ききしめて
  船に書かししこれの遺書かも
 (19首)

  幾度(たび)も押しいただきて胸に銘す
  征途に綴りませる遺書のこころを
 (20首)

  生まれ出づる子を大切にと親心
  のこして結べる君が遺書かも
 (21首)


生れ出づる子。

それは
出征する夫にとって
まだ見ぬ子であると同時に、
職業軍人であり
士官である夫にとって、
決して生きて会えることを
望んではならぬ子であった。

その覚悟を夫は遺書にしたため、
妻も夫の覚悟を
受け取ったのである。

  春さればうまれ来る子に幸あれと
  真白く清き産衣をぞ縫ふ
 (30首)


そして正月が過ぎ、
待望の男子が生れる。

それがどれほど
大きな喜びであっただろうか。

聖戦歌曲集《雪華》全18曲のうち、
この長男の誕生にまつわる曲が
3曲もあるということにも
私は着目すべきことだと考える。

そこにはおそらく
野村玉枝の意志だけではなく、
この歌集を読み
曲想を得て作曲を行った
平井康三郎(平井保喜)の意志と主張も、
介在していると私には思えるのだ。

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