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かきくらべライブ版9/25用に書いた掌編小説


  夕子は風の中 K坂
 
 室内は、適度にエアコンが効いていた。窓の外からは、蝉の鳴き声たちが今が残暑である事を喧しく告げてくる。
 隣のベッドには、私と同年代の女性が昏睡していた。呼吸器具や点滴の類は装着されていない。ただただ深く眠りにつくのみである。
 かくいう私も、意識こそはっきりあるが、つい数日前まで、ベッドから起き上がって自力歩行することがままならなかったのであった。
 先週、追い剥ぎ商店街で突風騒ぎがあった。不思議なことに、突風は路地を綺麗に通り抜けて、商店街の建物には一つの損壊ももたらさず去っていったのだ。
 ただし路地に存在したものは悉く被害を被った。車は、窓ガラスやランプ類が割れた。屯していた犬や猫は、風に押し流されたまま行方知れずになった。商店街入り口のアーチ看板は、見事に引き千切られた。タイミング悪く路地沿いの建物から顔を出していた人間は、首が折れたそうだ。路地に出ていた人間も犬猫が飛ばされたのとそう大差はなく、例外なく何処かへと飛ばされていった。
 私もその中の一人で、商店街から出て100メートルほどのところにある交番横の、指名手配犯ポスターが貼られる掲示板に、頭から突き刺さっていたそうだ。幸いにも骨折などはなく、全身の打撲と擦り傷が残る程度で済んだらしい。それでも全身の傷や打撲のダメージは、入院加療するのに充分で、私は今こうして、病室の人となっているのだった。
 さあ、医療従事者どもよ、この薄幸の美女を手厚くケアするが良い。折りよく看護師が巡回に来た。隣の女性の様子を見遣り、同室の患者達に病状を丁寧に訊いて回る。最後に私のところにもやって来て、棒読みで身体の具合について尋ねる。そして退室して行った。去り際、看護師の舌打ちが聞こえた気がする。身体にダメージを負っていても、私の嫌われフェロモン放出は止まないようだ。
 昼食後、私はうっかりうたた寝してしまった。ふと目が覚めると、病室内に、私達ベッドの主以外の誰かがいる気配を感じた。隣の、例の眠り姫への見舞い客のようだ。
 ずっと眠っているんだから無駄だろうに、来客は眠り姫に声をかける。
 「ご機嫌いかが?ユウコさん」
 うん?聞き覚えのある声のような。誰だったっけ?私はまだ虚ろな意識と定まらぬ目の焦点のまま、聞き耳を立てた。隣のベッドに背を向ける姿勢で眠ったせいで、そのままでは隣の様子を伺うことができない。かと言って、寝返りを打って向きを変えるのもなんだか憚られた。
 「近々、お店に伺います」元気な時であれば澄んでいるだろう高音の女声が掠れ気味に発せられた。傷んだ風鈴が鳴る音のようだな、と思った。
 そう。お待ちしているわ。ユウコさんたら、こないだ無理しちゃったから、身体も替え時なのよ。それじゃ、ご機嫌よう。そう言って、来客はベッド付近から出入り口へと靴音を向けた。私は、その靴音のリズムに誘われるように、再びうたた寝してしまった。
 しばらく後、うたた寝から目覚めた私は、隣のベットを見遣る。眠り姫は、目を閉じ横たわっていた。少し身体を伸ばし、ベッドの枕側フレームに付けられた、患者プレートを確かめる。〝聖護院夕子〟。ユウコさんは夕子と書くのか。眠り姫の正確な名前を知れて、意味もなく私は満足に浸った。
 自力で歩ける程度には身体が回復しているので、二、三日後には退院できる見込みだと看護師から教えられた。近々退院か。その足で、追い剥ぎ商店街にある雑貨店・へめえれゑに寄ってみようかしら。
 二日後、私は退院することになった。朝食が済み、配膳車が各部屋のトレイを回収して廊下を動き出す頃、退院の準備に取り掛かった。眠り姫は相変わらず・・・あれ?眠り姫がいない。ベッドの上にはシーツもかかっていない。看護師がいつものように、患者の様子を見に来た。私は、今から退院します。お世話になりました。と声をかける。
「お隣さんは、いつ退院されたんですか?」
 看護師は私に向き直りもせず、脈拍を測る器具をあれこれいじりながら、さあ、隣はずっと空いたままよ。と棒読みで応じた。
 ずっと空いたまま?昨夜の消灯時間まで、眠り姫はそこに眠っていたし、ベッドのフレームに患者プレートがかかっていたではないか。咄嗟に隣のベッドを見る。患者プレートは白紙になっていた。そんな。そんな。
 「聖護院夕子って書いてあったのに」思わず口走った。
 看護師の動作がほんの一瞬止まった。
 私は気を取り直し、病室を出る。ナースステーションを経由して、退院した。
 その足で追い剥ぎ商店街に向かった。通りには生暖かい風が吹き渡っていた。どこかの軒先で吊るされている風鈴が、チリンチリンと音を立てている。
 何故か、路地の逆方向からも風が吹き流れて来ているような感触があった。こちらは涼やかな風だ。ちょうど、へめえれゑの前で二つの風が絡み合い、ぐるぐる渦巻いているような気配がある。私は、へめえれゑのドアを開けた。
 リョオコさんは窓際に立っていた。窓越しに、外の路地を眺めている。私はリョオコさんのそばに寄って、彼女の視線の行き先を追う。
「あ」
 眠り姫だ。聖護院夕子。目を覚ましている姿を、初めて見た。筋向かいの木造りのベンチに同年代っぽい男と並んで座り、会話に興じている。彼女の、口をうっすら開いたり閉じたりを繰り返す様が、私には眩い。
 「今、外に出ちゃ駄目よ」
 唐突に、リョオコさんが釘を刺す。二人の恋路を邪魔するなということだろう。言われなくたって。と思いつつ空を眺めると、辺り一面が黒い雲に覆われてきた。そして窓硝子が大きく揺れた。
 へめえれゑ前で渦巻いていた生暖かい風と涼やかな風が、渦巻く速度を強め大きく膨らみながら、路地を左から右へ抜けて行く様子が、蝉の死骸や葉っぱの舞い飛ばされ具合でわかる。
 そのうち、路地に出ているあの店やこの店のあれやこれやも、同じく飛び去っていった。あのカップルも、ベンチごと消え失せていた。
 呆気にとられている私の横をすり抜けて、リョオコさんが扉を開き路地に出る。渦巻きは止んでいた。私もリョオコさんの後に従って、路地に出た。
 あはは、うふふ。若い男女が、慎ましく笑い合う声が聞こえた気がした。
 「ご機嫌よう」リョオコさんは、つぶやく。
 どこからか、風鈴の音がした。チリン。

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