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かきくらべ用に書いた掌編小説


 坂道を転がるもの K坂


 その日の午後、私は大学の大講義室にいた。半分こにしたすり鉢状の階段教室。履修する『比較文明学における異星間交流学概論』の講義に出席しているのだった。始業時間少し前に、私は中央の後ろから何列目かの席につく。 
 始業時間ぴったりに、講義室の後部、出入り口のドアが開いた。ドアの隙間から初老の男が顔を出す。この時間の講師を務める子法師准教授だ。学生たちからはダルマとあだ名されている。 
 入室したダルマ先生は、教室の一番下にある教壇に向かって、すり鉢状に坂道となっている階段の一段を下りるため一歩を踏み出す。踏み出した足が縺れる。縺れたはずみで体勢を崩す。崩れた体勢を持ち直すことなく前に倒れる。そして、そのままでんぐり返りを続けるように階段を下っていく。ぐるぐるぐるぐる。坂道の一番下、教団に激突して、ダルマ先生のでんぐり返りは止まった。教室中、誰からも声が上がることはなかった。
 しばらくして、ようやく人心地ついたかのように、ダルマ先生がよろよろ起き出す。ふらつく足で教壇の向こう側というか教壇の内側にたどり着くと、マイクを手に取る。
「本日はここまで」 
 はあはあと肩で息をしながらそう告げると、仰向けに倒れた。
 教室の前方左右の隅に分けれて待機していた大学スタッフらしき男性二人が、教壇に駆け寄る。一人は担架を脇にはさんでいる。担架を広げて二人でダルマ先生を載せる。そのまま担架を担ぎながら、真ん中の坂道を上がって教室を出ていった。教室後方に待機していたスタッフは私たち学生が入室する際に手渡された出席カードを記名の上自分たちにこの場で提出するように呼びかける。この講義では出席率が高い者に無条件で単位を認定するという噂だ。当然出席者はカードを提出しにスタッフの元へ集まる。
 私がこの講義を履修して半年、毎週必ず出席しているが、毎回この調子で、ダルマ先生の講義トークを聴く機会には未だ遭遇していない。

 この日の受けるべき講義の聴講を全て終え、私はへめえれゑに立ち寄った。学内にこれといった親しい人がいるわけでもなければ、何かの部活やサークルにも属していない、学外にも親しい友人知人がいるわけでもない私がふらりと身を寄せることができるのは、この頓痴気な雑貨屋だけだ。
「こんにちは」へめえれゑの扉を開く。
 レジカウンターには店主のリョオコさんが鎮座している。その斜向かいのテーブルには店内で占い商売を始めた聖護院夕子が、来客に対応中のようだ。
 レジカウンターにメニューの貼り紙がしてある。飲食サービスも始めたらしい。特に用事もなく立ち寄った身には、ここへ来る口実が出来て助かる。「コ、コ、コ、コーシー」
 いかん、注文することに何故か身構えて、つっかえるわ言い間違いするわ、二重に失態を演じてしまった。おまけに声が裏返ってしまい、顔から火が吹き出る心地になる。
「はい、喜んでー」居酒屋のオーダー対応を真似て、リョオコさんが気安い口調で応じた。
 聖護院夕子は、机を挟んで男性と向き合い、カードをめくったり一瞥したり並べたりしている。
「はい、コーシーお待ちどうさま」リョオコさんがレジカウンターの空いた空間にカップを置く。
 別のテーブルに移動するのも億劫になって、その場でコーシー、いやコーヒーを飲むことにした。リョオコさんが近くにあった椅子を手にして、私の立つ場に置いてくれる。私はその椅子に座ってコーヒーをちびちび啜りながら、聖護院夕子と占い客の様子を漫然と横目で見遣り続ける。
 斜め後ろから見える来客の顔に見覚えがあった。数時間前に見ている。ダルマ先生だ。
 私が思わず視線をダルマ先生に向けていたのに気づいたのか、聖護院夕子が私に顔を向ける。
「すぐ後ろに候補者もいることだし」
 ダルマ先生は、聖護院夕子の言葉に後ろを振り返る。そして私を正視する。まともに見るダルマ先生の顔には絆創膏がいくつも貼られ、ところどころに赤味を浮かばせていた。格闘技の負け試合をしてきた直後のように。そりゃ階段教室の坂道を一番上から一番下まで転がり落ちりゃね。
「彼女、私達の大学の学生ですよ。ひょっとしたら先生の講義も受けてるかも」いきなり聖護院夕子に雑な紹介をされて、泡を食う。
「あ、あ、え、えっと、今日も先生の講義に出席してました」私は、へどもどしながら聖護院夕子の言葉を裏付けた。
 ああ、そうなの、同学年なのかな。ダルマ先生が軽く問う。
 私が一学年上なのです、と聖護院夕子が返す。
「夕子さんは飛び級で入学してるから同い年のはずよね」  
 リョオコさんが、するっと注釈を入れてきた。 飛び級?あんた、第二外国語落として再履修してなかったっけ?確か…津軽語。飛び級なのに。
「不出来な飛び級でごめんね」私の心の声に答えるように、聖護院夕子が呟く。
「それはともかく」ダルマ先生が話題を本筋に戻す。      
 中期のアルバイトを求めているということだった。字数制限の関係で詳細を端折るが、ダルマ先生が半年前のある時期から、坂道という坂道でことごとく転がり落ちる現象に苛まれた。学内でも顔見知りの聖護院夕子が占いをしているので、気休めに占ってみたところ、この現象が治まるまで、坂道に出会ったら身体に手綱をつけて、誰かに手綱を持っていてもらえばいい、という結果が出た。ということらしい。
「中期って、いつまでなんだろう」私は独りごつ。「大体、一年くらいはこの坂転がりは続くから、半年が経過してるということは、これから半年程ね」リョオコさんが答える。なんであんたがいつまでこの現象が続くか知ってんのよ。

 あれよあれよと言う間に、私の頭越しにアルバイトの商談が三人の間でとんとん拍子に成立した。私は坂道の手綱係として、早速明日からアルバイトに励むことになったのである。人生初アルバイト。
 一つ、懸念材料が。私は家族からも距離を置かれがちな嫌われフェロモンの発動者である。今日のダルマ先生の講義室でも、私の座る席から四方に最低でも二つは間を置いて周囲の学生は席についていた。無意識に嫌われフェロモンを嗅ぎ取って、私を忌避していた。私がそこにいることで周囲の人間は不愉快になる。ダルマ先生だってそうだろう。手綱を握る際には、どのあたりまで距離を置けばいいのか。ダルマ先生が立ち去って、すぐにこの問題が頭を駆け巡った。
「あら、それは気にしなくていいわ。ついさっきだって、小法師先生はこの狭い店内でも不愉快そうな素振りを欠片も見せなかったわよ」リョオコさんが鷹揚に言う。
 聖護院夕子もそれに続く。「業を背負った人は、自分の業のことで頭がいっぱいだから」
 リョオコさんが引き継いで艷然と微笑む。
「他人の業の深さを、いちいち気にしてる余裕なんてないわよね」
 そういうものか。まあそれなら、気を遣うこともなくアルバイトできそうかな。
 え、ちょっと待って。リョオコさんも聖護院夕子も、私と同じ空間にいてもいつも平気そうなのだが。業の深い人間には、って。あれ?他人の業?あれ?あれ?
 そういえばこの二人には、そもそも私が薄幸の美女たる所以について語ったことがないんだけど。あれ?あれ?あれ?


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