神棚とトンカツ

娘とトンカツを食べに行った。

今週は忙しい上にちょっと腹立たしいことがあり、それを暴食で解消しようとした。これはいかん、と週末は家で野菜をたっぷり食べて体を労わることを最優先事項に決めていた。

だが、娘は明日は朗読のコンクールに出るので験(げん)担ぎにトンカツ食べたいよ、という。そんなことを言われると最優先事項なんて簡単に入れ替わる親心。それでは本番に備えて盛大に食べてもらおう、と店に入った。

験を担いでカツを食べる、はよく聞く。勝負服や勝負飯、なんていうのもあるし、靴はどちらから足を入れるか決めているという人もいる。私はというと大体そんな時は気持ちが落ち着かなくて、験担ぎする間もなくバタバタとここイチバンが終わっていく。

験を担ぐというか景気付けというかたまに子どもにしてやることがある。大したことではないが、神棚にお供えした炊き立てのご飯のお下がりを子どもに食べさせるのである。

子どもの時に祖父母の家へ行くと「仏さんからお下がりをいただいてきなさい」と言われたものである。仏壇でチーン、と鐘を鳴らして手を合わせ、「いただいてまいります」と言ってからまた手を合わせて美味しいものをみんなのところへ持っていくのである。線香の匂いがぷんとするお下がりは特別だった。

我が家とゆかりのあるお寺へ行くとお茶をいただく。本題に入る前に「さ、どうぞ」と勧めてくれるお菓子は線香の匂いがしないので少し残念である。大きなお寺だから匂いがつく前に下げられるのか、お客さまへのお菓子はお下がりではないのか興味があるが聞く勇気はまだない。

寺へ手伝いに来た人や大勢の檀家がお茶をいただいたりする部屋がある。そこを通ると若い雲水さんがおやつを召し上がっていることがある。みんなで楽しげにいただいている様子を見ると微笑ましい。修行の時はキリッとしているがおやつの時間の彼らはやっぱりまだ若いというか幼く見える。お菓子の力はすごい。きっとあれらもお下がりや檀家さんからの差し入れだろう。彼らはいつだって本当の験(げん)のものを食べている。

我が家は仏壇がないので、線香の匂いのするお下がりはないのだが、頂き物とか出張のお土産は一旦神棚へお供えしてから無臭のお下がりをいただく。特に夫のお土産の時は大袈裟に柏手を打ったりしてありがたさを強調する。神様の前を通ってちょっと格上げされた頂き物やお土産は美味しさも増す気がする。

説明できないような目に見えないものに感謝したり、畏れたりするのもこの世に生きている面白さだろう。神棚は説明のつかないあれこれと我が家をつなぐどこでもドアのようなものかもしれない。

娘に不思議な力を与えるためにはトンカツは一旦神棚に供えればよかっただろうか。いやいや、神様はそんなに甘くないだろう。明日は目に見える原稿を頼りに頑張って欲しいものだと思う。

では、また。ごきげんよう。