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祖母と私の8月15日

朝から真っ青な青空が広がっている山の我が家。毎朝8時には温度計が29度に達していますが、風がカラッとしているので気持ちがいいです。

さて、今日は終戦の日ですね。今朝、1945年の8月15日もこんな天気だったのかもしれないなあ、と思ってベランダに出ました。

私が小さい頃はお盆休みを父の実家で過ごしていたのだろうと思います。長崎の原爆の日や終戦の日になるとテレビの声に合わせて祖母や祖父と黙祷した記憶があります。

祖母と私の二人で黙祷をした後、二人だけでじっと仰向けになって何度か「死んだ人」になったことがあります。

何度目かの夏に「死んだ人」になった時か、「黙祷」した時かのこと。セミの声以外何にも聞こえない。誰も動いてない。死んだらそんなことも分からないんだろうなと思いました。だから「死んだ人」にはなれない自分は生きている間は「死んでいく人」にしかなれないな、と。

父方の祖母は普段、想像しなさい、とか、相手の気持ちに立って考えなさい、なんて一切言いませんでした。夢や希望より我が家のしきたりや威厳を保つことを第一に考えているような振る舞いの人でした。ですから、死んだ人になってみなさい、なんて全く思いもしない言葉でした。

毎年、祖母は何を思っていたんでしょう。

満洲国で恵まれた暮らしを送っていた一家だったと聞いています。終戦後、それまでの暮らしと全くガラッと変わってしまい、生まれたばかりの父と横になっているところへロシア兵が乗り込んできたこともあると聞きました。殺されるか、父を取られるかだと思っていたところそのロシア兵は何もせず行ってしまって助かったと話してくれました。

父は少し赤毛で癖っ毛でした。色も白くて、目も茶色くて、背も高い人でした。祖母が言うには、小さい頃よほど可愛かったのか、中国の人から「売ってくれ、売ってくれ」と行く先々で言われたとか。それでもこの子は大事な大事な跡取り息子だからと祖父母と父の姉が必死で守って連れて帰ってきたとも聞きました。


私は子どもの頃、父に似ていると言われるととても嬉しくて、特に父が亡くなった後は登校前に鏡を見ては「お父さんってこんな感じ?」と思ったりしたものでした。

そして私も二十歳ぐらいまでは少し赤毛でした。高校入学後に「髪の毛の色が赤いから天然だという証明書を出しなさい」と言われてもちっとも嫌な気がしませんでした。むしろ「私はお父さんに似ている」ことを公に証明された気がして嬉しいぐらいでした。

そんな私が50年生きているのも亡くなった父が満洲でロシア兵に殺されたり連れて行かれたりしなかったから。

祖父母が父を中国の人に売らなかったから。

父の姉がたくさん我慢をして父を守ってくれたから。

ただ「死んだ人になってみなさい」と言った祖母にもっと話を聞いておけばよかった、と強く思う今年です。

では、また。