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どこでもカップ

近藤です。

私には色々癖というか習慣があるのですが、それは大抵注意されるような事です。

出かけたら行く先々でいろんな人と喋るので目的地になかなか着かないとか。

布団の中で靴下を脱いでそのままにして忘れてしまうとか。

荷物を運ぶ時、一度の運ぼうとして山盛りになりアタフタするとか。

歯磨きしながら寝てしまうとか。

そんなことです。


でも家族がヒヤヒヤする癖があって、そのうちのひとつが

どこにでもコーヒーカップを置くこと。

コーヒーカップは本当によくどこにでも置いてきます。

ピアノの上、床の上、洗面所、玄関、本棚の中、郵便受けの上、自転車の前カゴの中、車の頭の上(ドアの開閉時に置いちゃう)、ソファーの座面、そんなとこでしょうか。特に床の上とソファーの座面は家族をかなりドキドキさせるようで子ども達から「中身まだ入っとん?入ってないん?」と聞かれます。

それだけコーヒーカップと共に行動していると思えば相棒のようですが、どこにでも置いてくるということは大事にしていない感じに聞こえますよね。問題です。

アメリカにいる頃は通勤時間が長かったので、ベーグルの乗ったお皿と朝飲んでいたコーヒーをそのままカップごと車に持ち込んで出発することが当たり前でした。(牛乳のかかったシリアルを乗せてくる強者もいました)。

通勤途中にお店でコーヒーを買う時もカップを持って入るとちょっと割引きしてくれたりしてお得なので持ち込んで使い、学校でも合間合間にコーヒーを入れ、昼は誰かが持ってきたスープ(助手席にお鍋が乗ってくるんです)を分けてもらうのに使い、帰りにまたコーヒを買い、寝る前に食洗機に入れたら朝からまた一日使う。

移動用の蓋のついたカップもいくつか持っていましたが、結局自分が家で使っているものを持ってどこへでも行ってました。

どこでもドアならぬどこでもカップ。これがあればいつでもどこでもホームになる、そんな感じです。

さて、職場だった学校ではいろんなコーヒーカップが「なぜここに?」というところに置いてあったのですが誰も気にしませんでした。(カップの存在を尊重してなのか片付けてあげないけど、捨てたりもしない)

昼休みの子どもの喧嘩が激しすぎるとか、ジャングルジムのてっぺんからジャンプする気配があるとか、誰かが吐いた、とか見たことのない人が学校の門に近づいてきたとか。何か大事なことが目の前に現れたらすぐに飛んでいくので、コーヒーカップが置き去りにされてるぐらいはいつものこと。「まあそんなものだ」という感じだったのです。

コーヒーを飲みながらいろんなところを見るって実は全然リラックスしていないのですが、それでもダッシュするためにあえて作り出していた緩みがコーヒーだったのかな、と思います。

当時の私はコーヒーが苦手だったくせにものすごい量を飲んでいました。

いつでもダッシュできるようにあえてリラックスの状態を作り出すって変ですが、大事な時に力が出せたらそれ以外のことまでやりすぎなくていいじゃないか、と思っています。

どこにでもコーヒーカップを置いてくるアメリカ人達も地域で頼りにされる助産師だったり、ここぞという時には最高のマナーを子ども達に教えていた教師だったり、素晴らしい働きをするビジネスマンだったり、大統領の友人のひとりとしてパーティーを取り仕切る事務長だったり、ダライ・ラマとしょっちゅう会う研究者だったりしました。

みんなここぞという時の行動が見事で、同じ人?と思うことも多々ありました。

とはいえ、周りをヒヤヒヤさせるような場所にコーヒーを置いてもいいことにはならないのですが。

だから子どもには口うるさく言います。「どこにでもカップを置きません」って。

お母さんずるい。と言われても平気です。「早く大人になってどこに何を置いても許される人になればいいやん」と答えるだけ。ここぞの時にダッシュできるようになったらもういいんです。なんでも。

ちなみに私の「どこでもカップ」はまだアメリカの家族の家にあります。引っ越しても必ず連れて行ってくれてるようです。だからアメリカにもホームがあるってこと。

置き去りも20年越えるとすごいですよね。

では、また。