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一期一会が身に染みる

 毎年結婚記念日あたりに家族写真を撮ってもらっている。結婚した翌年からなのでもう20年以上になるだろうか。昭和の風情が残る写真屋で撮ってくれる写真は全く普通の家族写真である。子どもたちの背がどのくらい伸びたのかがよく分かるようにほとんどの写真は4人で立っている。

 今年は結婚記念日あたりが忙しく、先延ばしにしていた撮影だったのだが、先日スーパーで会ったご亭主の息子さんから今月いっぱいで店を閉めることになったのでもう写真の受付ができないんです、と聞いた。びっくりしたのと忙しさを理由に大事なことを先延ばしにしたことを悔いた。

 もう撮ってもらえないと聞いたけれど挨拶だけと思い、先日店に立ち寄った。ご亭主もよくよく考えればもうとっくに引退してゆっくりしてもいいお年頃である。健康のことや最近の仕事のことなどお互いに話をして店を後にしたのだがなんとも寂しい気持ちだった。こうして自分達が歳をとるということは子どもの頃から馴染みの店のご亭主たちも歳をとるということだ。一年一年時を大事にしなければと思った。

 大事な人が亡くなったり、大好きな店が閉店したり、親しくしてきた友達が遠くへ引っ越してしまったり、もうこの人とは2度と会えないだろうなという経験が年々増えていく。またね、と気軽に言えるのは変わらぬ明日が来ると信じているからこそなのである。

 子どもを間に挟んだ付き合いも然りである。息子は中3。先日親しい家族で食事をした時「いったんこの集まりも終わりになるがみんな元気で、また会おうね」とリーダー的存在のてっちゃんが挨拶をした。私は「何言うてるの、みんなが高校に入ったらまたお花見があるやんか」と言ったのだが、てっちゃんはちゃんと分かっているのである。子どもたちが別々の進路を歩むということはここで一旦お別れだということを。幼少中と12年間の付き合いは長いようで短かったんだなとその夜はしんみりしてしまった。
 しかし子どもたちはギャハギャハといつも通りの騒ぎっぷりで帰りも「まーたーねー」とご陽気だった。お若いの、一期一会という言葉の重みなんぞはまだ分かるまい。そんなふうに言いたくなる寒い夜だった。

 来年はどんな年になるのか。分からないけれど楽しいことが多いといいな、と思う。が、私には来年のことを思う前に今年の大仕事が残っている。実家の母の友達がくれたという黒豆を美味しく炊く、というミッションである。近所産の貴重な黒豆なので失敗は許されない。年末の成功が我が家のみならず実家などの元旦のおせちを左右する。黒豆を煮るのが得意だからと一時期いろんなところへ配って回ったのがよかったのか悪かったのか、実家から年末に豆を預かると変な緊張感がある。しかし、来年も預かれるとは限らない。この豆も一期一会である。心して炊き上げるとしよう。

では、また。ごきげんよう。