#浦和レッズ 、 #アルビレックス新潟 、 #モンテディオ山形 でプレーされた #宮沢克行 氏を追ったノンフィクションです。
2004年5月9日、雨の落ちるビッグスワン。 アルビレックス新潟対浦和レッズ戦。 宮沢が対峙したエメルソンの右足から蹴りこまれたボールが、自陣ゴール内に転がる。 J2時代とちがいJ1では劣勢を強いられる時間が長く、先制されることがほとんどだった。 そんなチーム状況下にあって、監督の反町は選手たちによくこう説いていた。 「すぐ下向いてションボリするんじゃない。起きてしまったことは忘れて、切り替えるのが大切なんだ」、と。 反町の言うことは、宮沢も頭では理解できて
「ミヤ、お前、サイドバックやってみないか」 宮沢の2004シーズンは、指揮官・反町康治のこのひと言から実質的なスタートを切った――開幕前のキャンプ中、反町は選手ひとりひとりと面談する時間を持った。シーズンを戦うために立てたプランをもとに、自身が選手に求めるものと選手側の思いとを擦りあわせる作業をするためだった。 その面談の際、宮沢はサイドバックへのコンバートを持ちかけられたのだ。 本心では、サイドバックをやりたいとは思わなかった。 レッズ時代、3-5-2システ
携帯電話の向こうから、レッズ時代の同僚の声が響く。 アルビレックス新潟がJ1へと昇格して迎えた最初のシーズン、2004年の5月8日のことだ。 「明日の試合、絶対ブーイングされるでしょ」 翌5月9日には古巣との対戦が控えている。J1ファーストステージ第9節、対浦和レッズ戦、が。 抑えきれない若干の腹立ちを顕わにしながら、反論する。 「でも、オレは自分から出たくて出たわけじゃないじゃん。追い出されたのに、なんでブーイングされなきゃなんないの」 電話の向こうか
2003年11月23日、日曜日。 その日は朝から、新潟市一帯に冷たい雨がシトシトと降りつづいていた。 にもかかわらず、ビッグスワンへと集まった人の数は4万2,223人。 それまでのJ2リーグ最多記録を塗り替える数字だった。 加えて、チケットを入手できなかったファン・サポーターのために、クラブはスタジアム敷地内に270インチの大型ビジョンを設置。傘を差し、合羽に身を包んだ人たちがそのビジョンの前にも大勢集まっていた。 勝利すればもちろん引き分けでも、新潟は初のJ1