名探偵 奇想館大阪篇2018年7月22日エア参加ペーパー

 その日、ぼくは精一杯〝普通の中学生〟のふりをした。前の日なら何も問題なかった。頑張らなくたってぼくは普通の中学生だった。友達と挨拶して、教室でテレビやゲームの話をして、授業がだるいと文句を言って。
 しかしその日は、いつも無意識にしていることを全力でやらなければならなかった――しかもそんなときに限って友達はあまり気が乗らない感じで挨拶をしても近づいてこず、手を振るだけで遠ざかっていく。女子の中には、ぼくを見て顔を強張らせ、走り去る者までいる。――何だ。いつもと何が違う。
 それでも教室で席につくところまではしたが、そこで極めつけの異常現象が起きた。
「晴永、ポッキー食べる?」
 ……カバンを開けて教科書やノートを出して机に入れていたら目の前に、開けた赤い箱を差し出された。差し出したのは、茶色い髪で政治家の息子でクラス一の美少年、立花真樹。
 ……朝から甘いもんなんか食べられるか。政治家のお坊ちゃんなら豪勢なブレックファーストを食べてきたんじゃないのか。何考えてんだこいつ。
 しかし断ったら悪く思われるのでは? 変な奴だと思われるのでは?
 普通ではないと、思われるのでは?
「あ、ありがとう」
 おずおずと一本取った。断る理由がないから。
 それは甘くも苦くもなく、砂の味がした。
 立花真樹はかまわず前の席に後ろ向きに座った。――どういうことだ。居座る気か。
 なぜ今日に限ってぼくにかまう。
「最近のポッキー、先っちょ出っ張ってないよね。あっちの方がお得感あって好きだったのに」
「そ、そうだね」
「フランとか太いのは邪道だと思うんだよね。ポッキーはやっぱこの太さじゃないと。お前きのこ派? たけのこ派?」
「た、たけのこ……チョコいっぱいついてるし」
「きのこの方がビスケット少なめだぜ。大局的に物を見ろよ。まあオレ、チョココ派なんだけど」
 なら聞くなよ。何だこの会話は。
「ん。手相見せて。オレそういうのわかるタイプなんだ」
 唐突に立花真樹は女子のようなことを言ってぼくの手を取った。手のひらを指でなぞる。くすぐったくて、何だか気色が悪い。
「これ生命線。長いなお前。こっちが運命線。……お前の運命線、やたらギザギザしてっし途中でささくれてんじゃん。こっちが結婚線。お、二本ある」
 ……どうでもいい。ぼくにかまわないでくれ。
 立花真樹はいつも、新橋だの信濃だのだの取り巻きをぞろぞろ連れているはずだ。そいつらはこの状況をどうみているのだろうか。誰か助けてはくれないだろうか。
 首を回す。ロッカー、掃除用具入れ、廊下側の窓、掲示板、黒板。
 グラウンド側の窓の外には、太陽が明るく輝いている。
 ――誰もいない。新橋鷹也も、信濃泉一も、浜松も、帝塚山も。
 その他のクラスメイトも、誰も。
 後五分も経てば朝礼で、教室にいなければならないはずなのに。廊下を通りかかる生徒すらいない。
 のどがヒュッと笛のような音を立ててしまった。
 口の中がカラカラに渇いている気がする。
「……立花、お前さ」
 つぶやいたとき。
 遠くにうなり声のようなサイレンが鳴った。――心臓が弾けるようだった。
 思わず手を引いたが、立花真樹は両手で痛いほど手首を握っていて、離そうとしない。
「何。何で逃げようとすんの」
 立花真樹は女の子のような顔で、にたあ、と笑った。――こいつ、顔は綺麗だが性格が悪いので女子に嫌われている。
「警察怖い?」
 言葉が出なくなった。
 ――立ち上がろうとしたが、手を握られたままでは中腰にしかなれない。机が揺れてカバンとポッキーの箱と帆布のペンケースが床に落ち、半開きのペンケースからシャープペンシルや蛍光マーカーが散らばってポッキーと混ざった。
 机を挟んでいるので腕相撲のような格好になる。右手が上を向いているせいか、思ったより身動きが取れない。
「離せよ」
「嫌だね」
「何で」
「手相に出てんだよ。お前はここからどこにも行けない」
 立花真樹の茶色い目には。
 迷いも恐怖もない。
 ――そして気づいた。
 これは、チェーンデスマッチだ。お互いの手をチェーンで縛って逃げられないようにして、死ぬまで戦う――
 ――しくじった。左のポケットには武器になりそうなものが何も入っていない。
 ペンケース。カッターやシャープペンシルなら――いや、もう全部床の上だ。届きそうもない。
 全部計算ずくなのか。
「殴るぞ」
「やってみろよ」
 立花真樹が平然としているのは多分、ぼくの脅す声に迷いが入ってしまった。
 こいつはきっと、ぼくが右利きなのもわかっている。
 左手で机を叩いてみたが、ちっとも動じない。食い込む指をほどいてもみようとしたが、強く握られている。机を蹴りつけても向こうまでダメージが通っている感じがしない。そうだ、椅子の背もたれがあるから。
 だんだん、サイレンが近づいてくる。
 それはぼくにとってはカウントダウンで。
「お前、何でこんなことするんだ。オレが捕まったってお前に得なことないだろ」
「いつもやってるから。オレ以外誰もやらないから」
 立花真樹はあっけらかんとして、正義の何たるかなど語らなかった。
「とぼけたってもう全部バレてるし、お前がヤケになって暴れて誰か怪我して教室血みどろになってもオレは全然面白くないし後片付け大変だし学校休みになったりしたら出席日数ヤバいしその分夏休みが潰れるだけでいいことねーし。得はしないけど損しないため、かな。オレが何とかした方が手っ取り早いから。まあこんなもんは、慣れだよ慣れ。他の奴は慣れてない。オレは慣れてる。それだけ。あ、身の上話始めたりするなよ、お前がババア殺すとかキレた状況なんか詳しく知りたかねーよ」
「お前はおかしい」
「人殺しに言われたくねーよ。――誰やった」
 身を乗り出し、立花真樹はぼくの目を覗き込んだ。
「大勢じゃないな。家族。家族っぽい。父親。母親。母親?」
 多分、かまをかけてぼくの反応を見て。
 ――ぼくは、ゆうべうっかり勢いで母親を刺してしまった。殺してしまった。殺人犯だ。寝て起きたら全部夢だったりしないかと思ったが、現実だった。
 ――それでも子供の頃はそれなりに名探偵というものに憧れたりして。名探偵というものは「犯人は貴方ですね。真実は明らかにされなければならない。一体どうしてこんなことを。証拠はあるんです。同情しますが、殺人は許されない。犯した罪は償いなさい」と上品に優しく説得して。
 そんなものが現れてぼくを糾弾するのかもしれないと、一晩怯えた。
 でもこいつは。目の前の立花真樹は。
 こんなの、全然名探偵じゃない。
「殺してやる。お前も殺してやるよ」
「お前、後五分で警察に捕まるくせに何言ってんの? 左手一本で殺せるならやってみろよ」
「殺してやるからな」
 ぼくは、立花真樹の髪を掴んだ。怒りに任せてやってしまったが、髪を引っ張られたら流石にこいつも痛がるだろうと――
 だが。
 茶色い髪は、するりとずれた。勢い余ってよろけそうになった。
 ぼくの左手は、カツラを握り締めていて。
 立花真樹が笑った。今度は勢いよく破顔して大声を上げて。
「残念でしたー! 引っかかった引っかかったー!」
 奴は、住職みたいなつるつるのスキンヘッドで。髪がなくなると大きな目が一層大きく見えて、妙な色気さえ漂った。
 ――こいつはおかしい。探偵っぽくないとかハゲだとかそんなではない。
 こいつはおかしい。どこかのネジが、いや回路ごと飛んでいる。
 でも。
 人殺しになってしまったぼくに声をかけてくるのは、もうこんな奴しかいないのか。
 これから永遠に。
 ……ぼくも笑った。何だか知らないが笑った。ハゲ頭がどうしようもなくおかしかった。そんなことで笑うとか小学生みたいだ。
「……ちなみに何で、オレが殺人犯だってわかった?」
「オレが名探偵だから――じゃないんだなこれが。お前、シャツに血ついてんだよ、脇腹にデカいのが。クラスの全員知ってたわ、ドン引きだったわ。怖くて誰も声かけらんなかったんだよ気づけよ。オレが空気読んでやったんだよ。これは推理じゃなくて忖度だ。いつもママにアイロン当ててもらってたんだろ、それを殺したりなんかしやがって、親不孝者」
 もう笑うしかない。そう、確かにいつも制服は母が用意していた。かまをかけていたのではなく、ぼくをからかったのだ。最初から母親だと気づいていたのだろう。
 ――やがて、紺色の制服の警官がドカドカ土足で教室に入ってきて。皆でぼくらを取り囲んで、ぼくに手錠をかけて。やっと立花真樹がぼくの手を離して。
 現実感のない手続きの間、ぼくは、ずっと立花真樹を見ていた。あいつは椅子を立ってカツラを直すと、警官に話しかけられているのにかまわず携帯電話をいじったりしていた。

 留置所に入れられて、裁判を受けて、少年院に入っても、ずっとぼくはあいつのことを考えていた。母よりあいつのことを考える時間の方が長かった。新聞にはちょくちょくあいつのことが載っていた。
〝慣れている〟あいつは他にも〝あいつ以外誰も体験しないこと〟をたくさんしていた。最近では地震で死人が出たり、殺人鬼と一緒に孤島に閉じ込められたり、兄を誘拐されたり、学校が爆発したり。クラスメイトや取り巻きの連中も何人かいなくなったらしい。中に、つき合っていた彼女がいたとかいないとか。
 何だかだんだん、あいつがかわいそうになってきた。
 そのうち、出所が近くなった頃、あいつからはがきが来た。
『引っ越しました』
 何てふざけた文面。地図と、インターネットの無料素材っぽい車のイラスト。
 立花真樹は相変わらずのようだ。

 少年院というのは身許引受人がいないと出られないのだそうだ。父親は母親を殺したぼくを化け物か何かのように思っていて嫌がったのだが、親戚がいろいろ言ったらしく、結局ぼくは引き取られて家に戻ることになった。父親はぼくが捕まったせいで会社をクビになって、今は違う名前でトラック運転手をしているらしい。
 退院したらすぐ親と一緒に保護観察所というところに行かなければならないらしいが、少しだけ寄り道をした。
 立花真樹の家だ。
 そこは山の手の坂の上で、三階建てくらいの大豪邸だった。高い塀の向こうに白い石壁、ドアにはステンドグラスなんか嵌まっていて。事故物件マンションのうちとは大違いだ。事故物件にしたのはぼくなんだけど。
 インターホンを押してみようかとも思ったが、時間がないのでやめた。
 どうせこれから時間は無限にあるのだから。

 次の日、ぼくは仕事を探しに行くふりをして家を出た。中学中退の殺人犯を雇ってくれる職場なんてどこにあるのだろう。
 そうして山の手の立花邸に行くことにした。途中、ホームセンターでナイフを買って。
 まあ、あいつはこういうのも〝慣れている〟のだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?