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【闘病考】コロちゃん妻「肺がん」になる④.

0.「今日の記事のポイント」

☆「次男の結婚式も終えて安堵感と開放感の中で・・・と、がんの脳転移と抗がん剤治療が再び始まったよ」

☆「コロちゃんは子どもたちにLineメールを送り続けたよと、緩和ケア病院の見学も行ったよ」

☆「上高地への最後の家族旅行に行ったよと、テグタン料理の伝授をしたよ」

☆「脳のへのがん転移で身体が不自由となったよと、残された時間を大切に使ったよ」

☆「コロちゃんと妻の新婚生活の思い出だよ」

1.「次男の結婚式も終えて安堵感と開放感の中で・・・」

昨日までの「コロちゃん妻肺がんになる」は、コロちゃんの妻が「肺がん発症」の後に、辛い「抗がん剤治療」を終えて、次男の結婚式に新郎の母として出席したところまでをお伝えしました。

コロちゃんの妻にとっては、「次男の結婚式」は長い子育て期間の終了であり、母親としての集大成であったと思われますね。

コロちゃんと妻の二人は、その時に人生で重い荷物を下ろしたような「安堵感と開放感」を味わっていたのです。

そして、年が明けて春になった頃に「妻の歩行のぎこちなさ、言葉の不分明、レスポンスの悪化」が少しずつ進んできました。

ちょうど日本中が「コロナ感染」で大騒ぎになった年でしたね。

コロちゃんは、妻の変化にいち早く気が付いて「大学病院の主治医」に連絡し検査を行ないました。その結果は、コロちゃんが最も懸念していた「妻の肺がん」の「脳転移」が分かったのです。

前年の「抗がん剤治療+放射線治療」から、ちょうど5ヵ月後のことでしたね。

2.「がんの脳転移と抗がん剤治療が再び始まったよ」

前回の「抗がん剤治療」から、5ヵ月目に「がんの脳転移」が確認されました。「MRI検査」では「左頭頂部腫瘍1㌢:周囲に浮腫」となっていました。

妻は再び「抗がん剤治療」の再開です。今回の治療も前回と同じ「カルボプラチン+エトポシド」です。

担当医は「余命1年」と言っていました。

この時の「抗がん剤治療」は、「3日間の入院」で退院し、その後より3週間おきに「3日間の入院・退院」を繰り返すパターンで行なわれました。

妻は、さほどバタバタせずにどっしりと落ち着いているように見えましたね。

この「大学病院」から、車で20分ほど走ったところに「人造湖」がありました。

コロちゃんと妻は、「抗がん剤治療」で通院の帰途に「人造湖」の駐車場で湖を眺めながら、妻と持参したお握りの昼食をしばしば食べました。

この場所は、コロちゃんも妻も、20代のころにハイキングで歩いたことのあった場所でした。

1970年代当時は、この「人造湖」の周辺はハイカーであふれていましたが、今では寂れて廃墟となっているユースホステルが人造湖の中央にそびえていましたね。

コロちゃんと妻は、この場所でいろいろなことを語り合いました。どういうわけか、楽しかった日々や子どもたちの話しか出てこないんですよね。

「穏やかな時間」が流れた昼食でしたよ。

3.「コロちゃんは子どもたちにLineメールを送り続けたよ」

コロちゃんは、最初に妻が「脳梗塞」で倒れた時から、妻の病状を二人の子どもたちに逐一「Lineメールのノート」で伝えていました。

この作業は、医師の言葉や検査結果をコロちゃんがしっかりと確認できる効果もありましたね。分からないことは、帰宅後にGoogleで調べて書くことも多かったですよ。

コロちゃんが、今ポポチポチと調べたところでは、「Lineメール」は設定次第では3年保存ですが、「Lineノート」は保存期限がないとされていましたね。

そのおかげで、今コロちゃんは当時の記録「Lineノート」を確認しながら、当時を思い出して書くことが出来ていますよ。

コロちゃんの「Lineノート」は、子どもたちに妻の病状を誤解なく伝えられたツールとなっていましたよ。

そしてこの「Lineノート」を書く作業を通じて、コロちゃん自身も哀しみを紛らすこともでき冷静にやるべきことを進める力が湧いてきたと思っていますよ。

4.「緩和ケア病院の見学へも行ったよ」

「抗がん剤治療」は順調に推移し、「免疫チェックポイント薬のアソテリズマブ」も投与していました。

この「アソテリズマブ」には1~2割の長期生存例があると主治医は言っていました

妻が「抗がん剤」の点滴治療を受けているうちに、コロちゃんは担当医と相談支援センターの方と打ち合わせを行い、近隣の「緩和ケア病院※」のお話を聞きました。

(※緩和ケア病院:がんや他の疾患の進行に伴う体や心のつらさを和らげる専門的なケアを受けることができる病院)

一ヶ所は家の近くの病院で、もう一ヶ所は現在治療を受けている病院の近隣です。どこも入院待ちの状態で、早めに相談見学はしといた方が良いと伝えられました。

そして「緩和ケア」には「通院・訪問・入院がある」と教えられました。

二人で一ヶ所は見学に行きましたが、なんとも「現実感」がなかったように覚えています。

結果的には、コロナ過の中で入院すると、もう面会できなくなってしまう状況となり、妻は自宅で看取ることになりましたが、この時に準備をすべてやり切ったことには一定の慰めがありましたね。

5.「上高地への最後の家族旅行に行ったよ」

時計の針が否応なく進んでいることが、誰も言葉にはしませんが、コロちゃんたち家族の全員がわかっています。

「みんなで温泉旅行に行こう」

誰が言いだしたんだっけかなー? 当時は無我夢中で一日一日を過ごしていましたから、コロちゃんは覚えていないですね。

ちょうど「コロナ禍」の最中ですが、コロちゃんたちの家族全員が旅行できるのは、もう最後の機会でしょう。

上高地に全員集合しました。上高地高原を満喫し、河童橋でフォトをとって、川湯温泉に入って、部屋で全員が集まりトランプをし、大笑いし、大騒ぎをし、楽しい時を過ごしました。

楽しかったなあ。
。゚(゚´Д`゚)゚。うぅぅ・・・

6.「テグタン料理を伝授をしたよ」

コロちゃんちで、みんなが大好きだった料理があります。

「牛テール」を使った料理です。大鍋に「牛テール肉とゼンマイ、ニラ、もやし」を入れて、煮こみます。すり鉢で「ゼンマイとニラともやし」を潰すんです。

スープでもご飯にかけてでもおいしくいただけます。

妻が「抗がん剤治療」を終えた後に、少し病状が小康状態だった時がありました。そんな時にちょうどみんなが集まり、誰かが「食べたいよ」と言ったのでしょうね。

妻も、身体が動くうちにと思ったのでしょう。レシピをメモに書かせ、フォトに記録を撮らせて、そのあとでみんなで美味しくいただきました。

「やっぱりおいしいな!」と舌鼓を打つみんなの顔には、以前と同じ笑顔がありました。

この時には、まだ妻の体調はそんなに悪くなかったんですよ。

コロちゃんは、余命は告げられていても、信じられない思いと間違いなく時が刻んでいるという知識のはざまで、息が詰まるような思いでした。

ただ、それは顔には表せません。妻を悲しませたくないですからね。

当時のコロちゃんは、妻が「知識と知性ではなく、キャラで達観している」と評価したことがありました。妻は最後まで「毅然とした強い女性」でしたね。

7.「脳のへのがん転移で身体が不自由となったよ」

その後も妻の「肺がんの脳転移」は、じわじわと身体の自由を奪っていきました。

上高地への最後の「家族旅行」から、3ヶ月後には、「リハビリ」の散歩中に、小さな段差で躓くことが多くなり、こたつでの座位からの立ち上がりが困難になってきました。

その後は「大学病院」への「入院と退院」を繰り返していました。

しかし「主治医」は、まだ「抗がん剤」と「免疫チェックポイント薬:テセントリク」が効いていると診断していましたね。

その内に、最初は、それまで通っていた「デイサービス(入浴・食事等)」に通うことが出来なくなり、次には「デイケアセンター(リハビリ)」にも通えなりました。

8.「残された時間を大切に使ったよ」

ここまで書いて来て、後は妻の「最後の日々」となるのですが、もう今のコロちゃんは限界です。

普段は1万字の原稿を書いてもへっちゃらなのですが、どうやら「妻の最後の日々」のコロちゃんの傷口からは、まだ血が流れていたようです。あとは明日に書きますね。

ここで、ここまで妻の「闘病生活の時間軸」を振り返って見てみましょう。

◎「コロちゃんの妻の闘病生活」

➀「脳梗塞で3ヶ月間の入院」

➁「退院後3ヶ月後に、肺がん宣告:抗がん剤治療と放射線療法」

➂「その4ヶ月後に、次男の結婚式出席」

④「その5ヵ月後に、がんの脳転移:抗がん剤治療とガンマナイフ治療」

⑤「その4ヶ月後に、上高地家族旅行」

⑥「その4ヶ月後に、入退院を繰り返すようになる」

⑦「その3ヶ月後に、緩和ケアとなる」

⑧「その5ヵ月後に、逝く」

今から振り返った上記の「時間軸」は、「小細胞肺がんで亡くなったコロちゃんの妻」はこのような経過だったと皆さんにお伝えしたかったから書きました。

「押せ押せ」ですよね。

この中に「抗がん剤治療」や「ガンマナイフ(脳ヘのピンポイント放射線投射)」などがあり、妻の身体が徐々に動かなくなったきていたのですよ。

今振り返っても、よく「次男の結婚式と家族旅行」が出来たなーと思いましたね。妻は喜んでいたなー。
( ɵ̷̥̥᷄﹏ɵ̷̥̥᷅ )グチュッ…

この当時のコロちゃんは、いつも無我夢中で「妻の最後の日々」を少しでも充実したものとすることしか考えていなかったですね。

「がん」と言う病は、余命が分かる病です。「主治医」にキチンと正面から訪ねれば、ちゃんと答えてくれます。

コロちゃんと妻は、上記の「闘病」の中で、何度も「主治医」に「余命」を尋ねていましたよ。

そして妻の「残された限られた時間」を知って、有効に「最後の日々」を生き抜きましたよ。

今の「日本」では、男性の2人に1人、女性の3人に1人が一生涯のうちにがんになると言われています。万が一どころじゃないですよね。

この記事をお読みの皆様には、上記の「時間軸」を頭の片隅にでも置いて下さればコロちゃんは嬉しいですよ。

9.「コロちゃんと妻の新婚生活の思い出」

コロちゃんと妻が、一緒に生活を始めたのは、今から50年ほど前の1970年代前半でした。

東京都の板橋区にあったアパートでしたね。その部屋は、今でいえば「シェアハウス」みたいな家でした。

普通の家をリフォームして、部屋ごとに鍵を掛けられるようにした「1軒屋」だったのです。

コロちゃんと妻は、その「アパート(一軒家)」の「10畳の畳の部屋+2畳の板の間」のちょっと変わった部屋に住んだのです。

「お風呂」はありません。「台所」と「トイレ」が共用で、「1階に2世帯、2階に2世帯」が住んでいました。

「台所が共用」ですから、住民全員が一度に炊事をすることは出来ません。お互いに譲り合いながらの「昔の長屋」のような生活でしたね。

コロちゃんと妻は、まだ20代に入ったばかりの青年と女性でしたよ。若かったなー、貧しかったけど楽しかったなー。

いつも、2人で近くの「銭湯」に通っていたことを未だに思い出しますよ。皆さんは「神田川※」と言う曲をご存じですか?

(※1973年:神田川:歌:南こうせつとかぐや姫:作詞作曲:喜多条忠、南こうせつ)

「♬二人で行った横町の風呂屋、一緒に出ようねって言ったのに、いつも私が待たされた♬」

コロちゃんと妻は、正にこの歌のような生活をしていたのですよ。ただ銭湯の出口で待つのは、この曲では女性でしたが、若いコロちゃん夫婦の場合はいつもコロちゃんの方が待っていましたよ。

自分たちの将来は明るいと信じられた「良い時代」でしたよ。

コロちゃんは、今も妻のことを考えると、この「若かった時代」のことを思い出すんですよね。今よりはるかに貧しかったはずなんですが、コロちゃんも妻もいつも明るかったですね。

明日こそはちゃんと「妻の最後の夜」を覚悟を決めて書きますね。どうか皆さま、また読みにお立ち寄りくださいね。

コロちゃんは、社会・経済・読書が好きなおじいさんです。

このブログはコロちゃんの完全な私見です。内容に間違いがあったらゴメンなさい。コロちゃんは豆腐メンタルですので、読んでお気に障りましたらご容赦お願いします(^_^.)

おしまい。

Дарья ЯковлеваによるPixabayからの画像


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