見出し画像

日本で財布を落とした話

「いや、ぜったいにかばんの中に入ってるはずなんです」

初めて行った立ち呑みで、紅ショウガの天ぷらと焼き鳥数本をつまみに飲んだ月曜日。
お支払いをしようと思ったら、財布がなかった。

かばんのすべてをひっくり返し、それでもみつからない。
9時までの電話会議の後、私はすぐにオフィスをでた。
けれど、Yさんはまだ残って仕事するといっていた。そう思って電話をかけて、恐縮しながらデスクの周囲をみてもらった。

それでもみつからない。

かばんをお店に「カタ」として置き、とりあえず携帯だけ手にして。
道路をキョロキョロしながらオフィスまでの道を戻る。

立ち呑みにいたのは40-50分ほど。
夜10時のオフィス街。
ぽつんと落ちている財布を期待して携帯の懐中電灯でアスファルトを照らすけれど、やっぱりみつからない。

オフィスにまだ残っていたのはYさんの他にふたり。みんな一緒にフロア中を探してくれたが、その甲斐はなかった。

「警察に届いてるかもしれないですよ」

そういってYさんは管轄の警察に電話してくれた。
けれど、やはりその甲斐はなかった。

キャッシュカードも、日本の免許証も、日本のクレジットカードも、イギリスのクレジットカードも、すべてその中だ。

そしてなにより、あのお店に支払うためには、現金がいる。

「ほんとに1万円だけでいいんですか?」

そういいながら、Yさんはさくっと1万円札を渡してくれた。

「ここは日本ですから。出てきますよ。そういうもんです」

確信に満ちた表情で見送られ、私は、そのお札を握りしめ、また道路をキョロキョロ下をみながら店まで戻った。

「えっ。やっぱりみつからないんですか」

借りた1万円札で1500円あまりを支払ったあと、私はこれから交番に遺失物届を出しに行くといった。

「でも、このあたりに詳しくないので」

一番近い交番を探すため、携帯を出してググろうとした私。
と、40代くらいの若い大将はさくっと携帯を取り出し、一足先に一番近い交番を探してくれた。
しかも。

「でも、最近って交番の中に誰もいなかったりしますもんね」

といいながら、電話をかけて調べてくれた。

交番は歩いて20分くらいのところだった。

熱を持ったコンクリートが冷え切らない、もわっとした夜の大阪を。
あれやこれやの後悔や、情けなさをぐるぐるさせながら歩いていった。

大将が電話で確認してくれた通り、交番はがらんと無人だったけれど、そこに置かれた電話から連絡をすればいいとわかっていたから安心だった。
受話器をもちあげたちょうどそのとき。
カラカラカラと扉がひらき、お巡りさんがやってきた。

「あ、おまたせしました。電話の方ですね」

どうやらお店の大将の「これから遺失物届を出しにいくひとがいます」という電話のおかげで、お巡りさんが向かってくれていたようだった。

翌朝。
会社のひとたちにその話をすると、みなが自分たちのデスクの周囲だけでなく、廊下やトイレまで見て回ってくれた。

守衛室にいったり、清掃のひとに連絡をとったり。
申し訳ないくらいに、捜索をしてくれた。

全方位から差し出された暖かいサポートに、とても嬉しくなったけど。

7月に大阪に来て以来こっそり蓄積していた私のホームシックは、この最後の一撃でコップからあふれ出してしまったようだった。

海外居住者登録している私の日本のキャッシュカードは、アプリで止めることも再発行もできなかった。
銀行のホームページには銀行に印鑑と身分証明書を持参して再発行手続きするとあったけれど、印鑑なんて実家にしか置いてない。

そして、住民票のない私。
東京都公安委員会発行の免許証を再発行するには戸籍謄本の写しをもって、その公安委員会の試験場にいかなくてはいけないらしい。

ええい、東京へいっちゃおう。

再発行だのなんだのは、言い訳だった。

大阪はみんなやさしくサポートしてくれたけれど、やっぱりちょっと東京が恋しかった。

幸い、リスク分散でイギリスのクレジットカードを数枚アパートに置いていた。
それで新幹線の切符を買って、週の残りは東京から「自宅勤務」しよう。

新横浜で新幹線を下りた時。
エスカレーターの左側に立つ人の波をみた瞬間。
なんだか目がじわりとした。

ロンドンも大阪も立つのは右側。
だから、左に立つ人の波に、ああ帰ってきたという思いがグッとこみ上げた。

不思議なことに、
ロンドンから日本に着いたときなんかより、
ずっとずっと感情がゆさぶられた。

実は、今年は免許の更新の年だった。
誕生日まで1か月ほど。
あと1週間で免許の更新ができるタイミングだった。
そして不幸中の幸いで、ゴールド免許の起算日は過ぎていた。
だから、「再発行と更新同時手続き」と「期限前更新」を同時にさせてくれたら、ゴールドで更新ができる、はず。

鮫洲の試験場は、記憶とは全く変わってしまっていた。
ずっと地元の警察署で更新していたから、たぶん30年くらいぶり。

「時間前だけどね、データ出しておくからね」

再発行の窓口の担当はベテランぽい年配の男性だった。まったく威圧感なく、開始時間前なのに、そういって申込書類を受け取りに出てきてくれた。

「うんうん、事情は分かりましたよ。ふだん海外にお住まいなのね。財布、なくしちゃったか~。それは大変だったねえ」

そういって、快く抱き合わせ申請を受け付けてくれる。
ぜんぜん「お役所仕事」じゃない。
じーん。

結局、日本のキャッシュカードも電話口で担当者の方が事情をきいて確認をしてくれ、再発行を進めてもらえることになった。
これまた、じーん。

いっぽう。
イギリスの銀行は対応が大きく分かれた。

Chase銀行のデビットカードはアプリで「実際のカードをいったん凍結」と「オンラインショッピングやコンタクトレスをいったん凍結」という手続きが簡単にできる。

「物理的にカードを凍結する」のと、
「オンラインでの使用を凍結する」のと別々に設定ができる。
しかも解凍もスワイプだけでできる。

おかげで、カードを拾って悪用ということは防げるうえに、携帯やオンラインでの買い物は支障なく続けられる。これには大いに助けられた。

ちなみにChase銀行のカードにはカード番号などはまったく書かれていない。そもそものリスクにしっかり事前対応しているといえる。
失くすまで思いもしなかったが、これからのカードのあるべきカタチかも。

Monzo銀行のデビットカード、AMEX、First Direct銀行のキャッシュカードは家に置いてあったので無事。

対照的に、とっても辛かったのは、Barclays銀行のクレジットカードだ。

アプリの再発行手続きで「登録住所じゃない場所に送付」を選ぶと、電話で相談しろというメッセージがでた。
しぶしぶ国際電話で連絡したところ「今はイギリスの午前2時なので、明日の朝9時以降に電話をかけなおせ。でないと手続きできない」という。

渋々かけなおしたら、30分も待たされた挙句「海外には送りません」。

だったら海外送付はしないと書いておいてくれれば、時間も高い通話料も無駄にしないで済んだのに。

海外使用時の為替手数料が不要なことが売りのカードのくせに、海外でのトラブル対応がなさすぎでガッカリだった。

こうして東京で免許と現金を手に入れて戻ってきた週明け。
落としてから8日目。

大阪西警察署から、電話があった。

「遺失物と思われる品物がみつかりました」

お金を貸してくれたYさんは、誇らしげだった。

「ほら、これが日本ですよ。ジャパンクオリティ。
財布は返ってくる国なんです」

確かに。

翌日。
強い日差しの照りつけるなか、ようやく到着した警察署。

3万5千円ほど入っていた現金は、なぜか千円札一枚と小銭を残して、抜かれていた。
それ以外、免許証も、カードもすべて無事。
不思議なことに、乗ってもいない四つ橋線の肥後橋駅の構内に置かれていたそうだ。

路上で拾った財布から、現金を抜いて。
でも免許証などは戻るようにと、あえて駅までもっていったのか。
しかも、電車賃を千円残して?

「すべてありますか」

現金が入っていたせいか、警察署のひとは無傷で帰ってきたと思っていたようだった。

「いえ、大半の現金がなくなってますね。でも、あきらめてましたから」

窓口のひとは目を見開き、思わずといった調子で。

「え、こんな財布に、そんなに入ってたんですか」

いったあとに、あっしまった、という顔をした。

ぷぷぷ。
そうなんですよ。どう見てもチャチな小銭入れにしかみえないこんな財布に、私、お札を四つ折りにしてギチギチにいれていたんです。

この会話で、その笑いで、なんだか吹っ切れた気がした。
なにより、ずっともやもやしていた「本当に落としたのか」という気持ちが消えたのがうれしかった。

戻ってきた財布をかばんの奥にしまって、会社へ戻った。
フロア中のひとが、わっと湧いた。

その夜。
財布が見つかった報告をしに、立ち呑み屋へいった。
あのときとは違うお客さんなのに、「あ、このひとが財布なくした方なん?よかったなー」とカウンター中が喜んでくれた。

そして。
大阪に感じていたアウェー感が、少し、なくなっていた。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。