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なんの変哲もない煮物を作りながら友達の話を聞いた日

今日はなんの変哲もない煮物を作った日でした。

味の染みた厚揚げが食べたかった、というのが犯行動機なのですが、さっきつまみ食いしたらいい感じに味が滲み出て美味しかったです。反省はしていません。

そんな感じでゆるゆると煮物を煮ながら、私は友人のとある話をLINEで聞いていました。

内容は細かくは省くのですが、簡潔に言いますと友人が推していたグループの方が数年ほど前に他界し、それからそのグループの曲を聞くと切なくなって苦しい…というようなお話でした。

これって、やっぱりどんなに励ましてもどうにもならないことだな、と話を聞きながら思っていました。大切にしていたものが失われる喪失感が埋まるかどうかって、やっぱりその人の心持ち次第であるから。

もし私が同じ立場になったら、どんなに他人から励まされても人の言葉は中々響かないでしょう。それがわかってるからこそ、無理やり元気にさせようという気持ちは持たず、静かに話を聞くに留めています。

ただ、話を聞いていて思うこともあります。

別の世界へと向かっていった人がその後どうなるか、ということは私達にはわかりません。でも、わからないからこそ、その人の幸せや安眠を願うことはできるとは思います。そしてまた、その人が残した「何か」を残された人が大切にすることも出来る。

もし、推しや誰かに置いていかれてしまったら、誰かを見送ることになったら、私はその人の幸せを切に願いながら、その人が残していった魂の欠片みたいなものをかき集めて大事にしたいと思います。

魂の欠片は、本に残されていたり、音楽だったり、それは様々ですが、例え物質的なものが無いとなっても、ただその人のことを覚えているというだけでも「その人の残した魂の欠片を大事にする」という行為に該当するとも思います。

それは、今日の私みたいになんの変哲もない煮物を作ったときに「そういえば、あの人の笑顔もこんな風に優しかったな。」と思い出す。みたいな事でもいいのだと思います。

友人には、「貴方の「切ない」という感情は、その人やグループのことを心から大事しているという証拠だから、苦しいかもしれないけれどその気持ちを大事にしてあげてね。」とは言いました。

私の言葉が友人に届いたかはわかりません。すべて私の個人的な考えなので正しいかどうかもわからない。(正しいかどうはあんまり関係ないのかもしれないけど)

煮物を煮ながら片手まで聞くような話ではなかったなとは思うのですが、逆に優しい煮物の匂いを嗅ぎながら言葉を綴っていたので、落ち着いてすんなり色んな言葉が出やすかったかもしれない。(無理やり煮物の話にこじつけていくスタイル)

友人にも、煮物のような優しい匂いが降り注げばいいなあと思います。

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