いつでも思い出せる。

最近更新された推しの動画、頭が忙しくて全然見てなかったんだけど今日やっと見る気になって見に行った。

動画サイトにあがったそれを見た時、ブワッと「ライブに行った当時の感覚」が蘇ってくる。

光がステージいっぱいに溢れた景色、イントロのメロディが空っぽの耳に押し寄せてくる瞬間、ボーカルの一声が放たれるのを叫ぶのを堪えてじっと待つときの緊張感。

アーティストに会えたのが嬉しくて嬉しくて、胸がはりさけそうになるあの高揚感が、鮮やかに身体の内側から溢れ出てきて、私は自分のからだが「あの時の壮絶な瞬間」を覚えていてくれている事がたまらなくうれしかった。

私はライブにいくのがすっごく大好きだ。あそこでしか感じられない生のエネルギーがあるから。けど、いつもライブが終わり、時が経てばたつほど生の高揚感が身体から剥がれ落ちて「いつか思い出せなくなるかもしれない」という不安がつきまとっていた。器用なのだか不器用なのだか、いつでも喜びと忘却への絶望感が頭の中に充満している。いつもそうなのだ。

忘れる、ということが怖い。それは至極当たり前の恐怖なのだろうけれど、私は必要以上にそれを恐れている。

だって、忘れちゃったら生きていけない。大切な人を忘れたら、愛する人を忘れたら、私はもう生きている意味がない。愛する人、愛する人へ手向けるための愛、それが私の全てなんだよ。それを忘れてしまったら、なんて、考えるだけで泣けてくる。

でも動画を見て、肉体の奥底から呼び起こされた衝動を感じて、忘却への絶望が覆された気がした。

身体が覚えてる。あの場所にあった空気、神さまが降り注いだみたいな光、発せられる音を覚えていた。震えて涙した事、肉体の内側の発狂が鮮明に思い出せた。

同時に脳みそなんてちっぽけなもんなのだな、と思った。結局、肉体に刻まれた記憶だけが鮮明に「本物」として残っていく。そんな風に感じる。

嘘偽りない、記憶の中で塗り重ねられない、肉体に起こった衝撃そのものが自分の記憶なのだ。脳みそが忘れたって構わない、そんなことまで思えてくる。

少し前に、アルツハイマーの女性が白鳥の湖を聞いてバレリーナだった頃の記憶を辿るように静かに車いすの上で踊る動画が非常に有名になった。

あれを見て、「本当に自分が愛したものの記憶」は肉体や脳みそよりも奥深い場所に染み付くものなのだ。と感じた。それを信じたいと思った。今なら信じられる気がする。

きっと肉体は覚えてるはずだ。あわ立った肌、毛穴から吸い込んだ興奮、あの日突き刺さった音の痛み。歌や拍手が空気を鳴らしたこともきっと身体が覚えてくれている。

引き金を引けばいつでもその感覚を思い出せる。

それを証明してくれたのが今回の出来事。






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