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ひとくち日記:ころモっころ五郎の愛情表現のすゝめ

すでに絵日記更新しちゃったけど、文字が書き足りない。だから書く。雑記だけど、今日感じたときめきやら何かドロドラしたやつを書きなぐってやろうと意気込んでる私。

今日のときめきは、最近見てたコンテンツで「面白い人だなあ」なんて思ってた人に、急激に、何故か、突然、ZOKKON♡LOVEどっきゅん♡ってなってしまったこと。でも惚れたことが悔しくて咽び泣いた。謎の敗北感。

絶対好きにならないと決めた…っていうのはもう完敗宣言なんだよなあと、ホントは薄々気づいていた。

もう最終的に「ああ、ああああああああ!!!もう!!!あなたにファンが何人いようが!!!!なんだろうが!!!!関係ないわ!愛させて!!!!」と堰を切ったようにその人を描いたファンアートを某サイトやらやや苦手なSNSサイトやらの海を泳いで泳いで海水飲んでも泳ぎ続けた。溺死するまで絶対に追い続けるわよ。死物狂いですわ!!!(血眼)

なんて、今日も元気じゃなかった魂を元気よく燃やしている。

こうしてコンテンツに愛を振りまく時、やっぱり常に「自分の自分以外の存在に対する愛の振り撒き方」について考えてしまう。 

今、私は「それ」をどうやって愛している?とふとした時に考える。

つい先日愛するモノに対する愛情については書いたばかりだけど、この前あまりにもむしゃくしゃして何も考えずに書いてしまったので、もう少しちゃんとした文章で書きたくなっちゃった。(この前のやつリンクこれ)

でも、この前のも踏まえて、何度考えても私の「コンテンツの愛し方」の根底にあるのはやはり「信仰」なんだよなあと思う。

愛する「それ」を信じ、敬い、貴ぶことが最大の愛情表現だと感じている。一方通行的な愛情表現。気持ち悪いほどの、滝のような怒涛の愛情や恋情を一人で噛みしめること。

焼き増した言葉になってしまうけど、「一方的に好きでいること」は全てにおける「楽」だ。楽しい、気楽、快楽、そのすべて。

だが、私の愛情表現の根底にあるのは「信仰」だけではない。それは「獣のような欲求への恐怖」。

私が自ら「それ」に見返りを求めることや、逆に「それ」から見返りを過度に与えられることに恐れ慄いている。

望み過ぎる事が自身の破滅や破壊を生むことも身に沁みて知っている。獣のような餓えが信仰の皮を被っていることを熟知している。

私には見返りを期待するという欲求や「私を見てほしい」という認識や承認の欲求を飼いならせない。 

私は自分の感情が如何に深く醜いかを知っているから「自分の欲望を貴い存在に晒すこと」を恐れる。絶対に嫌だ。私が愛するものには「私が許せる(見せられる)範囲の私」しか見せたくない。獣のような私は美しくないから。恐怖と愛情がアンバランスなままに一方通行な愛情表現に縋っている状態だ。

そういう恐怖心などもろもろもあって私は一方通行な信仰的な愛情表現を選ぶけれど、人によってはそういう「一方的な全肯定」を好まない方もいらっしゃるし、過度な神格化が及ぼす悲劇がこの世には無数に存在していることも知っている。なんなら私も知人に向けてやらかしてるから実感してるし、反省している。

だからできるだけ息を潜めて、まず何かに愛やトキメキを覚えたとき必ず心のなかで「私はバケモノだから、愛を伝えるときは力加減を考えないと、みんなに怖がられちゃうからね。突然発狂したり、狂い死んではいけないよ。でもそのニヤケ面とピンクの色ボケクソ頭はもう治んねーから諦めな。」と自分に言い聞かせている。

なので、なるべく、本当になるべく、言葉はとても選んでるつもりでいて(選べてない説もある。気をつけたい。)、とにかく自分勝手な過剰な神格化を相手に押し付けすぎないような行動を取ろうと必死になっている。例えば愛するモノを語るときは美しい言葉を選ぼう、と国語辞典なぞを引っ張り出してくんずほぐれつで努力努力、みたいな。(?!)

それでもまだ若干タガが外れてしまうことのほうが多いけど、「信仰心」を愛情表現の原理とする反面、根底に「バケモノである自分」という役に立ってんのか立ってねーのかわかんないストッパーみたいな何かがあるのは確かなのである。

あと、信仰を原理とした愛情表現や神格化をするとはいえ、自分のプライベートな思想や思考はキッチリある。

どんなに愛してても、私の中で私と私以外の人間との距離感が永遠のテーマであるが故に、私の自己と他者(愛するモノ含め)との境界線を強烈に意識し続けているのだ。

だから賛同しかねる部分には賛同しないし、考えさせられる言葉はよく考える。

「信じて疑わないこと」が私の中の愛や恋の全てではないというか、むしろいつでも愛するモノの言葉や思想に「それはどういう意味?その考えのルーツはどこから来てるの?」と興味を持って(悪く言えば疑って)いってから、それに賛同するか否かを決める。それが私の独自的な信仰のあり方。独善的ともいうか。

「まあ、そういうとこも一応好きですけれど、でも私の考えとはやっぱり違いますね。」って、自分と「愛するもの」を切り離してこそ成り立つ「信仰」で「愛情」なのだ。

あくまでも愛する「それ」私と同一ではないという意識を常に持って愛するモノを全力で愛する。むしろ、私と同一の存在ではないから、私はあなたを愛してる。それくらいの気持ち。

私は私のまだ見ぬ世界を見せてくれる人が好きなので、愛する人からいろんなことが学びたいし、たくさん勉強させてほしいのである。コンナノハジメテ♡を推しに求めてるんだよな。

と、長々ずらずらベラベラと好き勝手書いてしまったけど要約するなら、色んなコンテンツを意味不明なくらいめちゃくちゃのぐちゃぐちゃに自分が破滅しようが関係ないくらいに愛したい一方で、自分の中のルールも広辞苑並にあるので、そこらへんのバランスを上手くとってコンテンツを「推す」という行為に励んでいるのだ。

まあ結局「推し」が好きすぎて咽び泣いてるのには変わりはないし洪水が起きてることには変わりはないんだけどもね!!!!!!!!!!!!お金もどんどん推しに使っちゃうんだけどね!!!!!!!!!!!

でも後悔はしない。後悔しないと決めた。だってそれが私の人生の全て。愛するモノに全力でいること、それも私にとってとても大事なもの。

愛してるからこそ、節度、言葉、態度、距離感、疑り深さ、考えることはたくさんあれど、最終的なオチはそこなんだよな。

今日はときめきについて書きまぁす♡なんて言ったり、この前めちゃくちゃな文章書いちゃったからわかりやすく書かなくちゃ♡とか抜かしていたが、結局滅茶苦茶な長文になってしまった。滅茶苦茶な長文書くの好きだからしゃーない。

最後に締めの一発としてクソクソ陳腐な言葉を書くなら…


愛や恋って難しい〜〜〜〜〜〜〜〜!!



です。

というわけで本日はそんな感じで。

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