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ひとくち日記:Twitter辞めた話とnoteやってる理由の話

気づけば人と交流する為のTwitterを辞めて多分一年くらい経って、且つnoteを始めてから数か月経っていつのまにか67本ほど記事を書いていた。

特に節目でもなんでもないのだが、今日は何でTwitterやめたのかとか、noteをやっている理由とかを改めて書いてみたいなと思い立ち、ゆるゆると文字を書き始めた。

私がTwitterはじめてやめるまで

私がTwitterを始めた理由としては、当時好きだった顔見知りの呟きを監視したいが為にアカウントを作ったというちょっとアレなきっかけで始めた。

そしたらある時、その監視していた顔見知りに私がTwitterやってることがバレてしまい「Twitterやってるならフォローしてよ~!」って話になってあれよあれよというまにどんどん知り合いが増えた。

それから三年ちょっとくらいやって辞めた。
辞めた理由は現実でもインターネットでも人と交流するのが疲れてしまったというのが一番大きな理由だなと思う。(Twitter外でも人間関係のトラブルが多々発生したのもある。)

これは個人的な感じ方ではあるけど、特にコロナ禍になってから情報の密度がそれまでの倍以上に高まってるように思えて、色んな論争やらデマやら何やらの拡散の嵐に一気にグロッキーになった。

情報の錯綜による混沌の嵐が巻き起こってグロッキーになる中、自粛による閉塞感や推しイベント中止などのストレスも重なり益々憂鬱になって、友達の些細な愚痴にすら嫌気がさすほど気が滅入ってしまった。
そして、そんな自分の心の狭さや疲弊が息苦しかった。

しんどい

そうした諸々の理由もあり、一旦情報過多な場所から距離を置きたいとTwitterを辞めた。Twitter辞めてからは結構気が楽になって、わざわざ目を掠めた無関係な罵詈雑言にいちいちストレス感じてた自分の繊細さについて改めて考え直すきっかけにもなった。

本当はもっと機能使って自分がやりやすいようにも出来たんだと思うし、気にしなければよかったんだろうけど、神経質な私にはちょっと顔見知りとの距離感の近い交流が向いてなかった。

noteやりはじめたのはなぜなのか

え、じゃあなんでまたnoteやりはじめたんですか?という話しなんですが

なんとなく、顔見知りとの交流断絶してインターネット再出発してみたいなと思ったのと、誰かの何でもないままでいられることが楽に思えたから。

noteってまたまた個人的な感覚でいうと渋谷スクランブル交差点とか新宿駅構内みたいに、知り合い云々関係なくひたすら人が行き交ってる場所というイメージが強い。(Twitterはカフェみたいな「人の声が思わぬ形で聞こえてきやすい場所」という感覚。)

noteは見出しだけ見て内容を開かずに通り過ぎて行くことも出来て、「見出し」というワンクッションがあるおかげである程度無関心でいられる(自ずと自衛出来る)ように思う。見出しがあることで一定の距離が出来るというか、読む前に一度立ち止まれる時間を見出しが作ってくれているのである。

否応なしに文字が飛び込んでくるよりも、「その文章を読むか読まないか?」を受け手が判断できる段階があるって私にとってはとても大事。(その分人に見て貰えるような見出し作りや文章を書くのはとても大変なのだけど)

Twitterでは友達のRTで思わぬマイナスな話題を直で食らって「グァーッ!」ってなることが多かったのだが、noteは外部に共有するシステムはあってもnote自体にはRTする機能ないし(確か)、事前に見出しによって「自分が苦手そうなもの」をなるべく避けられる点が個人的に魅力に思う。

全て個人の感想です

(全然新宿駅でもなんでもない個人の感想イメージ図)

そういうRT機能のない点や見出しのワンクッション以外に、新宿駅の道端で歌う名も無いストリートミュージシャン(かっこ付けてる)みたいな感覚で居られるのも好きだ。見たい人が見に来る、見たくなければ素通りしていい…っていう静かなスタイルを心地よく感じる。(それでも素通りせずスキなどをくれる人には本当に感謝しかないです。)

あとは、Twitterだと私の場合文字数が限られてる分反射的に脊髄でバって文字打って呟いちゃう事が多かった(しかも呟いた後に後悔する)けど、noteだとグダグダうだうだ2000文字くらい書いてから一旦自分で下書きにドン引きして消すか否かジャッジする時間が出来るのも利点。

モヤモヤを瞬時に「なんかむかつくわ!」という9文字で呟くより「何でもモヤモヤしてるのか?」をチマチマチマチマ長文書いて一旦落ち着かせて消す、くらいの時間の緩さが作れるnoteの方がまだ私には合ってるかな…というような考えのもとnoteやったりしている。(割と最近脊髄でバーーーーーってnote書いてるけど)

おじいちゃんの家みたいな時間の緩さを求めて。

私は特段「誰かの役に立ちたい!」というような熱いソウルを持ってnoteはやっているわけではなく、「なんかちょっとやってみてえな」というふわっとした気持ちでやり始めた。

そんな私の今後の理想としては、ガチガチに強く強迫観念を持たずにおじいちゃんの家みたいな緩い温かさをもって文字を書いていきたい。

時間や情報の加速に疲れてしまったからこそ、他者の感情や言葉になるべく左右され過ぎないような形で私の内面を見つめたいし、ゆっくりと自分の言葉で自分の内面や好きな事を表現したい。(あと推しコンテンツの布教もしたい。)

なので、今後もチマチマとnoteの中でゆる~く色々やっていけたら良いなあとは思う。文字ジャンキーなので本当にアホほど文字打ってるけど。緩さの欠片もない速度で文字打ってるけど。

どきどきワクワクとポカポカを作るぞ~という気持ちでこれからも生きていきます。

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本日はそんな感じで。

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