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学ぶこととは 学校のICT化の先

今やフリーなので自由に意見を言ってみたい。
転職して20年以上、学校の情報設備のシステム構築と保守を仕事としてやっていた。
その間の学校の変貌も見続けていた。定点観察となっていた。その結論として、いい方へ変わってはない。
あれだけ情報化しても、そうなのだ。

新潟の情報化の先進校として有名な中学校、2000年に無線LAN、校内PHSなど導入、設備管理もIT化した。テレビでも何度か紹介された。
そこの司書の女性の言葉。10年前になる。
「パソコンとか色々設備も入って、生徒も変わりましたか?」俺の質問。
「うーん」少し悩む。
「ただの山猿が、おしゃれな山猿になったくらいかな」
根本は何も変わってないようだ。

そして、今や司書さんも、ほとんどの公立校でいなくなった。
司書の女性達は転勤がなく学校を長く見ているので、先生や校長より、よく生徒を知っており、俺はたまに話を聞いていた。
「これでいいのか、クラウド化でいいのか、賢者を外していいのか」

情報設備に関してはある法則がある
「今学んでいることが、ずっと役に立つとは限らない」
私も無駄だったスキル、学びたまにあった。
そんなものに時間を費やしていいのか、学びの本質は普遍的な教養を身につけることではないか。今時ワードプロセッサーの達人はいらない。そうなってしまう。一方、書いた内容と価値は不変だと思う。

情報化しても、感じることは学校での国語力、歴史的な認識力はあがってない。
言葉が通じない、説明しても理解してない。仕事で打ち合わせをしても、目先の白黒と損得しか分からない。俯瞰的な長いスパンでの筋立てた話は理解出来ない人が多くなっている。

国語力
藤原正彦さんも強力に主張している「国力は国語力」
科学の世界で重要なのは、自分が考えるプロセスをきちんと文章にできることだ。しかし、受け手が理解不能では意味をなさない。
それでも、まだ英語の教育を増やすのか、完璧な翻訳機がAIとネットを使って既にあるだろう。

「第二言語は、第一言語のレベルを超えない」
英語を第一言語にして植民地化したいのだろうかと思う。学ぶ時間は永遠にない。AIに出来ることに時間を潰すこと必要はないと思う。
だったら何に時間を使うべきか、藤原正彦さんは、
教養とは、他人の経験から自分の経験値を上げること、つまり本を読むということですと言う。

学ぶことの本質について
本を読むこともそうだけど、自分の経験値から、「こういう人になりたい」というロールモデルを思い描く、描けない子供達が多数だと思う。でも何でもいいので、
「自分が何を極めるために1万時間*を使うべきか」を見つけることが学びのトリガーになる。

井上靖さんの小説 大正15年当時の話「北の海」でも、浪人して遊んでいる主人公に田舎の老人が同じような事を言っている。

「ワシは思うんだが、人間という奴は、一生のうちに何かに夢中にならんとな。何でもいいから夢中になるのが、どうも、人間の生き方で一番いいようだ」
「柔道か、よりによって面白いものを選んだなぁ、親の脛をかじってやるなら、それもいいだろう、こんな所で子供と遊んでいるよりよかんべ」

----以下引用
1万時間理論……フロリダ州立大学のエリクソン博士が提唱した理論。競争の激しい領域で成績を上げる人は、練習におよそ1万時間を費やしているという調査からできた理論。
一つのことを集中して長く続けられる要素があることだと
家庭で育つ中で面白いと思ったものでひたすら遊ぶとか、毎日何かを続ける
成長段階のどこかで何かに非常に集中し、かつそれを自ら深くやる、繰り返して習得できるまで頑張る、そのプロセスを楽しんだ経験があるように思います
------
ちなみに1日 2時間練習して、730時間、1万時間には13.6年かかる。

家族ノート
少々学び本来の話からはずれるが、子供の教育で悩んでいる時、実施したのが家族ノートだった。

私には子供が3人おり、教育という面で、試行錯誤していた時期があった。特に末っ子の娘2(小6)が2010年6月に1型糖尿病となり、それでも中学受験があった。また同時に、兄(高3)の大学受験もあった。私は40代仕事に忙殺されていた。
このままだと、子供達の面倒を妻に丸投げとなる。そこで、ラインなど無い時代、家族の意見を聞くため、交換ノートを家族で回して書くことにした。
普通の日記でもあり、漫画もあり、殴り書きなど色々あった。とにかく書いてもらった。
ノートが2冊目くらいになると、子供達の資質がなんとなく見えてきた。自分も学ぶことは多い。

娘1(末っ子)から、素直な文とイラスト。彼女の文章で一番面白かったのは、アクション小説で、悪玉シャーク団が出てきた時は笑わしてもらった。
とにかく筆圧が高く。字が太い。また漫画も筆圧が高く、特に動物のイラストが多かった。末子の特長として、意外と良く人を観察している。

娘1(長女)、ともかく筆圧が低い。薄い字。水泳の選手で毎日泳いでいたので、疲れ切っているのか、ボーッとした文章だった。ただ、文章自体は上手い、素質があると感じた。
実際、その当時、武者小路実篤の財団が主催する文集に掲載されたりしている。ただ、多くを語らない妄想系の女の子だった。

最後は息子(長男)、「えーっ、何を書いていいか分からない」
もともと図画工作は、美術の先生がファンになるほど個性的だったが、本人はやる気なし、特に文章なんか書くのは面倒。
面倒くさがりだったため、ノートが戻らない事がしばしばあった。
ノートではないけど、美術の授業で、彼の友達をスケッチした人物画は個性的で素晴らしい出来。10人程度描いて、全てA++以上。その絵はノートでは見られなかった。

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その後ノートはか妻の子供達への小言の記載が多くなり、徐々に終了。
直接言いにくいことを書くのはいいけど、主旨が違っていた。
直筆だと、やはり個性がでて良い、今時のラインなどのフレーム内だとやはり見えないことがある。子供の教育、学びに対して、お互いを知る手立てとして交換ノートはお勧めだ。

以上で、まとめは無い、と言うか未だによく分からない。このまま学校が情報化されても、されなくても天才や秀才は出てくる。王道ではないと思う。
学校の情報化が教育レベルを上げ、教養がつくこともない。少し便利になる程度。もう20年も経つが、そんな程度だった。


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