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風に吹かれて(俺のオートバイ1)

オートバイが青春の一部だった頃、私の気持ちは迷走していた。そんな時代を共に過ごしたオートバイの話。

1975年夏
高校を卒業した1年目、私は浪人という立場であった。時代はベトナム戦争の終結とか、赤軍派の活動など、荒れ狂っていた時代に突入していた。

しかし、世間がどうなろうが、私は貧乏なアルバイトをする浪人であった。
そんな7月末の晴天、梅雨明けの朝、夏のオゾンを含んだ南風が窓から吹き込んでいる。
私はこの風でいてもたってもいられない気持ちってしまった。

とにかく悩まし風が吹いていた。
夏の草の匂い、花の香り、水の匂い、鳥の鳴き声を風が運んできた。
それを感じてしまったら、どうしようもなく心が騒いだ。

朝一で予備校の授業があったけど、私はブーツを履いた。ヘルメットはおいていく。
ホンダCB750K1(ナナハン)を路地裏から4m道路へ運んだ。朝なので近所に気を遣う。ナナハンにまたがりセルでエンジンをかける。一二回空吹かしをして、暖気運転なしにクラッチをミートさせた。

1969年、世界を驚かせたスーパーバイクが日本で発売された。後の暴走族のシンボルバイク、ホンダCB750、通称ナナハンだ。エンジンは空冷4ストローク4気筒2バルブSOHC、67馬力。200mの加速はポルシェより速い。4本マフラーのジェット音は後の集合マフラーより私は好きだった。

速度をあげると、風圧で目から涙が出てきた。旧甲州街道から府中に向かった。ルート20(甲州街道)に出て府中街道の交差点を過ぎると車がかなり減る。国立駅の交差点から一気に道路は下り、信号もない緩やかなコーナーに合わせて飛ばす。メータは120キロを指していた。視界が狭まり目からはさらに涙があふれる。
国立の森の緑が後方へ遠のいていく。

日野橋の交差点、まっすぐ行けば青梅から奥多摩。左折すれば八王子から高尾と相模湖。
私は左折した。どうせなら山を越えて海に向かおう。
八王子駅を過ぎ高尾山、ここまで来ると山道となってくる。ホンダの初期のナナハンはパワーの化け物だ。トルクレンジが広いので、コーナーリングはアクセルコントロールだけで、気持ちよく走り抜ける。目の前には木漏れ日の山道が続いている。
私は速度を上げて、技量ぎりぎりで運転していた。

山道で遅い車を抜くには、谷側の左コーナーでアウト側から加速して抜くのが一番安全。
直線では車も速度を上げてくるので、次のコーナーまでのチキンレースとなる。
そんな状況で、NEWシルビアがチキンレースを挑んできた。私は短い直線で一気に加速した。シルビアの前に入り短くブレーキをかけ速度を落としコーナーに入る。コーナー出口のクリッピングポイントで一気にアクセルを開けて加速する。

大垂水峠を過ぎ相模湖インターまで来たとき、気配を感じた。
バックミラーを見ると白バイが後ろにいた。
白バイ隊員は私のバイクの横に並ぶと手のひらを路肩へ向けて降った。泣く子も黙る第八交通機動隊だ。私は素直にナナハンを路肩の広めのスペースに止めた。

白バイは私の斜め前にバイクを止めた。
「バイクから降りて」白バイ隊員が言う。30歳くらいだろうか、サングラスで表情がわからない。
私はバイクから降りた。バイクに乗ったまま手招く白バイ隊員、サイドスタンドは下ろしていた。
「お前、ヘルメットは」
「忘れました」
「かぶってないと死ぬぞ」
「免許証を見せて」
私はジーパンの後ろポケットからくしゃくしゃの運転免許を出し、手渡した。
手に取った免許を見る白バイ隊員、しばらく免許と私を交互に見る。
免停かな、不安が広がる。

「今日は帰れ、あまり飛ばすな、死んだら終わりだぞ」
そう言うと免許証を返してくれた。
にやっと笑う白バイ隊員、サイドスタンドを蹴りアクセルを一煽りすると、クラッチをガツンとミートさせ白バイを素早く発進させた。私は相模湖方向へ走り去る白バイの後ろ姿を見送っていた。

気づくと太陽が高い、日差しも強くなり、額に汗が噴き出てきた。
もう風は吹いていなかった。

---私の主観でのバイク紹介
HONDAのCB750K1 K0が初期タイプなので2世代目。
4ストローク4気筒2バルブSOHCのエンジン。世界を驚かせたが、車検1年付きで、中古なら20万程度で買えた。今や、ビンテージなので100万円以上する。

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