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私が道端で、マウンテンバイクを抱えて倒れるまでの話

20年続けた会社の解散
(株)東芝○○○社を2001年で早期退社し、その後、ある意味ではベンチャー企業へ転職した私。正社員がマックスで5人の弱小企業。ここで20年会社を続けたことは、凄いことだと思っている。今年の8月末に全てを処理して事務所を閉めた。
「会社を作り、続けることは難しい、辞める時は簡単だ」
来年の今頃は、この会社の存在を誰も思い出さない、それが世間の時の流れだ。

入社当時は、社長と私だけの会社。事務所はあったが、組織としての形は全くないダミーみたいな会社だった。実は前の会社の退職金を頭金として、地元に家をローンで買っていた私。当然背水の陣であった。その頃サラリーマン生活が嫌で、少し頭が緩んでいた。でも何とかなるような気がしていた。(根拠はない)

まず事務所に必要な什器を購入する。さらに情報機器を購入、電話、インターネット回線を引き、事務所内にLAN設置する。取り急ぎメール環境とWeb環境をネットに構築する。ホームページを作る。
LAN内にサーバを置き、その後、社内規定、各種帳票類、総務、経理(これは別途)を、前の会社にならって、サーバ内に構築していく。

ちなみに事務所は水道橋駅の近くにあり、巨人のオーナシートを契約して、東京ドームでの巨人戦はよく見に行った。これはイチローの引退試合。

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会社の発展と健康診断の関係
さて、話はもどり、事務所を構築する傍ら、営業活動を社長とガンガンと行い。技術的な仕様や見積。受注後は工程と資金計画、外注を探す。見積合わせ、とんでもない忙しさであった。

勝負をかけた1発目の大型物件を受注し、どんどんと事業が広がった。それからは、営業活動のため、海外の視察、国内視察を何回も実施する。また各種研究会にも参加協力した。情報システムを構築していたで、その後の保守契約もあり、会社の利益も仕事もどんどんと増えていった。収入も増えていった。

そんな中、仕事以外の面で、3人の子供の子育で大変な家庭状況。趣味のトライアスロン、アウトドアもやり続けた。身体の面で、営業における接待、飲み食いも避けられなかった。
そんな中、健康診断は3年に一度受けるのが精一杯だった。小企業の常で個人の仕事の負担が大きい、都合よく休むとか出来ない。そんなことで毎年健康診断は先送りとなっていった。

そして10周年。さらなる会社の発展をと思った矢先。民主党の失われた10年。それと東日本大震災だ。不景気の波が来る。それでも仕事は減らない。でも利益だけが減っていく。この辺りから給料はマックス時の3割減となる。

そんなある日。自転車で駅に向かう途中、胸が凄く痛み出す。しばらくすると収まる。年齢は52才になっていた。
胸の痛みは、スイム練習中にも起こった、これは狭心症だと思い、事務所に近い某大学病院へ行く。
2時間待ち、5分診察。適当な診察を受ける。「胸が痛むのに、降圧剤の処方だけかよ」医者を信じる事も出来ず、通院も面倒臭くなり、自分で食事療法をして体重と血圧を落とした。
すると、なんと2ヶ月ほどで胸の痛みは消え体調が戻った。さらにトライアスロンでも自己ベストタイムを出し、年代別で常に5番内。絶好調となっていた。

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娘の不治の病と親の介護
しかし良いことは続かない、55才を過ぎた頃、娘2が不治の病気となる、またその3年後、母親の癌が発覚、実家での介護生活となる。
仕事以外での自分への負担がどんどんと増してきた。本当はこの時期から頻繁に自分自身の健康診断を受けなくてはいけない歳だったのだが、そんな余裕もなく、55才で受けた健康診断が最後となった。

生活は、実家で介護、自宅での生活、お袋の通院、仕事での出張、正に地獄のような生活を続けていた。それでも地元での生活だったので、なんとかなった。弟も協力してくれた。
おかしなもので、そんな状態でもトライアスロンやスポーツの試合への参加は続けていた。まあ、生きる糧だねぇ。
練習不足でも、運動さえしていれば大丈夫。ある種の信仰心で心を正常に保っていた。
そしてステージ4の癌であったお袋は、平成31年3月に亡くなった。俺も気づけば還暦を過ぎ62才となった。

親の介護と自分の老後、年配者の最大の不安だと思う。家庭を持つサリーマンの大きなリスクだ。私が大きな会社を辞めたのは、そのリスク回避でもあった。とにかく、親の近くの地元に定住したかった。また知った土地は楽だ。
子供達の教育の面でも、転勤、単身赴任などは、とんでもないリスクとなる。
転職して、地元に家を買い定住する一つの勝負だったが、なんとか上手くいったと思っている。そうでないと親の介護は無理だ。

辛いことも何時かは終わる。そんな嵐が過ぎ凪となった。
そして2021年となる。疫病のボディーブローで元気だった我が社のワンマン社長も老いぼれた。私も仕事に対して情熱が失せつつあった。

時代は変わっていた。情や熱意で仕事が取れなくなっていた。安く安く、金金、営業面ではウンザリしていたので、もう会社を解散しようと言う話が出てきた。
仕事も更新時で、切りの良い時期でもあった。そして後始末を含めて今年の8月末で会社の解散となった。
私は早めに65才の誕生日前の5月末に退社した。

3人の子供も今では社会人、家のローンも終わっている。親も近所に買った墓の中にいる。背負っていた重責がほぼ消えていた。
だけど、何故か背中や肩が痛む。胸もたまに痛む、
「まぁ、少し休んで、運動すればいいか・・」

そんな状況で、久しぶりにマウンテンバイクの練習にでる。気温は35度。熱中症には夏の試合や練習には慣れているので、十分に注意をしていた。しかし、心臓は壊れる寸前だったようだ。
そして、壊れた。(急性心筋梗塞になる。この顛末は別途)

写真は最後の試合となったマウンテンバイクレース。

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何とか生き残り、入院中、医師の話では、体型もスリムだし、食生活も常識の範囲、ここまで心臓がぼろぼろなのも珍しいと言われる。
おそらく体質、つまり遺伝的に血液が濃い、詰まりやすい体質だったようだ。しかし、苦しさに耐えるスポーツを常にしていので、運動で苦しいのか、血栓で苦しいのかわからず。勝手に判断していたのも病状を悪化させた原因だったようだ。

人生はどうやってもリスクがある。覚悟を決めているしかないと思った。

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