幸福に創作を


 今年の初の更新である。今年は去年よりうんと更新したいが、それが叶うのかはよく分からないので、まあ知らん。

 一〇年前、ぼくがティーンエイジャーだった頃、さまざまな儀礼や風習というものに何の意味があるのかと首をかしげていることが多かった。物心がついた時には施設に入って一度も会うことなかったひい婆さんの葬式でも、だれひとりとして悲しそうにしていない身内だけの集まりに肩が凝ったし、やたらと日付を気にしては湯船にゆずやらネギっぽいなんかあれ、なんだっけ、あれを浮かべていたり、好きか嫌いかでいえば嫌いなカボチャを食卓に出している母親の行動にもまったく理解を示さなかった。いや、もちろん出されたものは食べたし、異物混入した湯船にも浸かったが。

 つまりなにが言いたいかというと、年が変わったからといって新しい目標を立てるということについても、一〇年前のぼくはまったく意識していなかったということだ。目標やら願いなんて、持ちたきゃいつでも持てばいいし、きっかけが年号が変わったからというのはどうなのだろうか、と思っていたわけだ。

 で、大人になった今はどうなのか、答えはシンプル。

 めっちゃ大事、一年の目標立てるのクソ大事。

 と思うようになった。もちろんほかの儀礼や風習についてもさまざまな納得がいった。挨拶をしないといけないのも、人間は働くようになったあたりでその辺の他人としゃべりたいと思わなくなるし、でもなんもしゃべんないとそれはそれで感じが悪いわけで、とりあえず会ったら挨拶して天気について話して、お互いにおもしろくもない、けれど悪い気にならないためには、そうしておくのが最適解なのだとよく実感した。

 去年、じいちゃんが死んだ。なんとひい婆ちゃん以降初の身内の死だ。よくこの一〇年間だれも死ななかったなと思う。そして葬式があることにはあったのだが、その辺もまあ身内の事情というかまあいろいろあったのだが、当初はその葬式すらなく直葬という説が有力視されていた。じいちゃんが亡くなっえすぐに火葬され、ぼくは死に顔も見ていない。そのまま墓に直行されれば、今だってぼくは彼が死んだことを実感することなく、なんとなくもういないらしいと、まるで知らない芸能人が死んだときのような感覚を抱いていたことだろう。形としては葬式と納骨式を同時にするというものに落ち着いて、じいちゃんのいない身内の集まりを眺めることができた。ばあちゃんはそれなりに悲しそうにしていた。ひょっとしたら一〇年前も、だれかしらおんなじ顔をしていたのかもしれない。まあ、ぼくはそこまで思うこともないし、昼飯のクソ美味いそばの味をしっかり覚えておくことにした。それも、儀礼があったからこそだ。悼むことの意味は、たくさんあった。

 そして、一年の目標を立てる意味だが、それはひとえに日常のなかに句読点を打ち込むこと、それ以上でも以下でもない、しかしそれこそが生きていく上でとても大切なことなのだと思った。日々を生きていると、疲れたり嫌になったりすることは多い。なにかをやりたいと意欲が出てくることはだんだん貴重になっていく。そりゃそうだ。ぼくは裕福ではなけれどそれなりに幸福だ。少なくとも、これ以上の幸福を望む必要がないくらいには。愛している人と結ばれ、大好きな小説を書いて、読めて、映画を封切り日に見に行って感想をいう友達もいるし、ゲームも年に一本くらい飽きるまでやり込んでいられればそれでいい。ぼくはとても幸福だ。だから、求める心は衰えていく。それを、今とても実感している。

 だから、今年最初のnoteで、ちゃんと言っておかなければならない。
 ぼくは今よりもずっとおもしろい小説を書きたい。今年は、一〇〇ページ少々の中編を三本完成させたい。短編集もだ。協力してくれる人に報いるだけのものを書きたい。幸福を保ちながら、守りながらだ。

 幸福に抗うつもりはない、壊すつもりもない。ぼくは全部を抱えて、もっと欲しいものに手を伸ばす。

 それと、今年はナイキのスニーカーを一足だけしか買わないと決めていたが、やっぱり二足買おうと思っている。ほら、欲望は大事だからね。あと仕事で履いている靴がだめになったら、それも別で買おうかな。それはほら、必要だし、構わないよね。

 おめでたくはないが、ともかくはぼくの一年は始まった。今年もよろしく。

 お幸せに。


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