第2回 『モロトフ・カクテルをガンディーと』の頻出表現をめぐって考えた「システミックとは何なのか問題」のこと

マーク・ボイルの『モロトフ・カクテルをガンディーと』(ころから)の翻訳者、吉田奈緒子さんが翻訳に取り組む過程での気づきや思いを綴ります。同時進行的に連載されていた紀伊國屋書店『scripta』からの転載を期間限定でお楽しみください。
※タイトルは連載時のものから書店員でライターの花田菜々子さんリスペクト風へと変更されています。

◉あわぶっく!
2018年3月、南房総の里山に咲き競う花々の祝福を受けながら「あわぶっく市(いち)」がうぶごえをあげた。
東京・谷根千(やねせん)エリア発祥の一箱古本市、近年では同じ千葉県内の上総(かずさ)地域を巡回する「旅人ノ本ノ祭」に触発された発起人(うちの夫)の呼びかけで、安房地域の本好き仲間が昨年から話し合いをかさね、ふつふつ、ぶくぶくっと、思いを発酵させてきた念願の野外ブックマーケット。当初予定していた〝読書の秋〟開催は雨天中止の憂き目にあい、仕切りなおしの今回も前日の雨にやきもきさせられたが、一夜明けて待望の青空のもと、20の個性ゆたかな一日限定本屋さんが軒をつらねた。
今回の会場は、のどかな田園風景のまっただなかに位置するコミュニティ・カフェ&マーケット「awanova」の前庭だ。スタッフ兼零細出店者の私も、これまでに訳した書籍3点や自作チラシを縁台に並べて、いざ宣伝。
午後からは、青空読書会、絵本の読み聞かせなどがおこなわれ、拙訳書『無銭経済宣言─お金を使わずに生きる方法』がお題の読書会では紹介役をつとめさせてもらう。原著者マーク・ボイルが「経済のローカル化」を強く訴えるように、私たちのあわぶっく市も、地域に小さな経済圏をつくるこころみのひとつとひそかに自負している。だから、「貨幣経済どっぷりの毎日だが、買い物は地元の商店でと心がけている」という参加者の発言には意を強くした。
あわぶっく市はけっして金銭のやりとりを排した場ではないけれど、会場内で自然発生的に無償譲渡や物々交換がおこなわれていたらしいし、台所事情を察した大家さんのawanovaから「赤字の補てんに」と会場費が返却されるなど、そこここに無銭経済スピリットが息づいていた(スタッフも、アイルランド音楽の演奏にかけつけてくれた友人らも、当然ながらボランティアであった)。
この日、あらたな持ち主の手にわたった本の数は(主催者側で把握しているだけでも)300冊超。もとより、過疎化の進んだ地にしろうと本屋が半日ばかり店びらきしたところで、金銭的な利益はたかが知れている。それでも出店者たちからは、「いろいろな人と本の話ができた」「新しい出会いがあった」「買いこみすぎてかえって本が増えてしまった」など、おおむね肯定的(?)な感想が寄せられた。各店ごと、またイベント全体として、赤字を出さない工夫は今後の課題だが、まずは、本を通したコミュニケーションの場づくりがかなったことを喜びたい。

◉システミックの記憶
来年のあわぶっく市では4冊目の訳書も陳列して……ともくろみつつ現在とりくんでいるDrinking Molotov Cocktails with Gandhi(『モロトフ・カクテルをガンディーと』)は、マーク・ボイルの最新作。テーマは〈暴力〉である。
さて、本書にsystemic violenceという表現がくりかえし登場するのだが、個人的に、このsystemicという語を見聞きするたび、20数年前のちょっぴりほろ苦い経験を思いださずにはいられない。
5年間つとめた東京の総合書店を辞めて、第二の学生生活をロンドンで送っていたころの話だ。初年度に在籍した大学院進学準備コースには、修士課程で学ぶための予行演習として、担当教員の指導を受けながら模擬学位論文を完成させる自主研究課題があった。言語と社会のかかわりや言語間の力関係に関心を持っていた私は、旧宗主国の言語である英語がインド社会に与えた影響を題材に選んだ。おのずとインド人研究者の書いた英語論文を参照する機会が多くなる。そうした論文から引用した文章のひとつに、このsystemicが使われていた。
「システマチック」ならカタカナ語でもなじみがあるけれど、「システミック」ははじめて聞くことばだった。もちろん、日本育ちで初の外国暮らしも日の浅い留学生にとって、未知のことばとの遭遇など日常茶飯事。ところが、下書きを添削してくれた歴史学専門の英国人指導教官までが「こんな単語は見たことも聞いたこともない」とおっしゃる。論文の執筆者は標準英語のネイティブスピーカーでないから、実在しない単語を勝手につくってしまったのであろう、と。ははぁ、なるほど、和製英語の「ファンタジック」みたいなものか。うなずく私に教官は、英語論文の表記規則を伝授する好機とばかり、「こういうときは問題の箇所のあとに(sic)をつけなさい」とたたみかけた。すなわち「原文ママ」だ。
systemicが実はれっきとした英語なのかもしれないと思いはじめたのは、日本に帰国して何年か──ひょっとしたら10年以上も──たってから。最初はネットサーフィン中に偶然、何かの英文記事で使われているのを見かけた。その後もときたま目にするので、もしやと思って英和辞典を引くと、たしかに載っている。「組織(系統、体系)の」「【生理学】全身性の」「(農薬が)浸透性の」などとあり、おもに自然科学分野で使われるようだ。
そういえば、くだんの論文では、大小多数の言語が混在するインドの状況が、自然生態系の多様性に重ねあわせて積極的に評価されていたっけ。執筆したインド人言語学者はおそらく、文系理系の枠を自在にとびこえる幅ひろい教養の持ち主だったのである。不勉強で未熟な日本人学生に「原文ママ」なんて余計な注意書きを貼りつけられたと知ったら、さぞや苦笑するだろう。
英国で生まれそだち高等教育を受けた大学人のアドバイスならと、ついつい当時はうのみにしてしまった。しかし「ネイティブスピーカー」の言語力も過信してはいけない。そもそも、ひとりの人間があらゆる分野の語彙に精通するなど不可能に近いことは、わが日本語能力をふりかえってみればすぐにわかるのに。

◉システミックな暴力
いま、手もとにある『リーダーズ英和辞典』(研究社)の初版(1984年)と第3版(2012年)のsystemicの項を比較してみると、新しいほうには、先ほど挙げた語義のほかに「(問題・変化が)全体に及ぶ」との記述が加わっている。時代がくだるにつれて、自然科学の領域から日常的な文脈へと使用が広がってきたものと推測される。
マーク・ボイルの著書で再会した「システミック」は、名詞「バイオレンス(暴力)」を修飾している。システミックなバイオレンスとは、どういう暴力をさすのだろう。
暴力と聞くとふつう、殴る蹴るの物理的な攻撃、強盗や殺人などの犯罪ばかりを思いうかべがちだ。一方、システミックなバイオレンスという表現でボイルが注目をうながすのは、産業化が進んだ社会の一見平和で快適な生活様式がはらむ暴力。たとえば、熱帯林の大規模伐採、工場式の畜産、コミュニティの破壊、富裕層と貧困層の圧倒的格差など、いずれも合法とみなされ、常態化している暴力である。
そんな暴力の総称として、どのような日本語訳がふさわしいか。systemic=組織の、だからとりあえず「組織(的)暴力」をあてて訳しはじめたが、どうも考えてみたら、暴力団による傷害事件だとか恐喝だとかを連想させてしまいそう。ためしに「組織暴力」でグーグル検索すると、往年の東映ヤクザ映画『県警対組織暴力』(深作欣二監督)に関するページがずらずらヒットした。これではまずい。暴力性がわかりやすすぎて、原文の意図とはあべこべだ。
ならば「構造的暴力」とするのはどうだろう。社会構造に埋めこまれた暴力──。ボイルの言わんとするところを過不足なくあらわせるように思われる。
〈構造的暴力〉はもともと、「平和学の父」と呼ばれるJ・ガルトゥング博士の提唱した概念(原語はstructural violence)で、社会構造に起因する貧困、飢餓、抑圧、疎外、差別などをさす。戦争やテロなどの行為主体が明白な〈直接的暴力〉だけでなく、行為主体を特定できない〈構造的暴力〉もない状態を、博士は〈積極的平和〉と名づけた(安倍政権の主張する「積極的平和主義」がまったく別物であることはいうまでもない)。

◉システム的 vs. 構造的
さらに調べていくうち、systemic violenceがスロヴェニア人哲学者スラヴォイ・ジジェクの著書Violence: six sideways reflectionsに出てくるキーフレーズだという情報にたどりついた。それならそうと、はっきり書いてくれればいいのに。
『モロトフ・カクテルをガンディーと』でボイルはジジェクに何度か言及し、Violenceの一節をも引用している。しかし、それらの箇所では直接この用語に触れておらず、かと思うと別の著述家による文章を引用した部分にこれが出てくるものだから、ジジェクの使用概念だと気づくまでに時間がかかってしまった。
さっそく確認のため、邦訳『暴力 ─ 6つの斜めからの省察』(中山徹訳、青土社)を取りよせる。
同書によると、暴力には大きく分けて〈主観的暴力〉subjective violenceと〈客観的暴力〉objective violenceの2つが存在する。帯の惹句に「見える暴力・見えない暴力」とあるように、主観的暴力は「誰によってなされたかが明確にわかる」のに対し、客観的暴力は「「正常」状態に内在」しており「目にみえない」。先ほどのガルトゥングの分類でいえば〈直接的暴力〉が前者に、〈構造的暴力〉が後者に、それぞれ相当すると理解してよさそうだ。
客観的暴力の一種としてジジェクがとりあげるsystemic violenceには、「システム的暴力」という訳語があてられていた。「資本主義のもつ根本的なシステム的暴力[…]は、もはや具体的個人やその邪悪な意志に帰属させることはできないもの、純粋に「客観的」でシステム的で匿名的なものである」(前掲書)。
なるほど、systemicをカタカナで訳してしまう手も考えられる。厳密な学問上の議論においては、あとあと〈システム的暴力〉と〈構造的暴力〉を区別すべき場面も出てくるかもしれないから、別々の訳語をあてがっておくほうが賢明だろう。でも、そうした特別な場合をのぞけば、二者の意味内容のちがいをあえて意識する必要はないように思われる(ジジェク自身の文章にも「構造的暴力」をほぼ同義に使用した例が見られる)。さらには「構造的」のほうが日本語としてなじみがあり、直感的にわかりやすい。ガルトゥングうんぬんの来歴を知らなくても(私もよく知らなかった)じゅうぶん通じるはずだ。
『モロトフ・カクテルをガンディーと』で使用する訳語は、いまのところ「構造的暴力」を第一候補にしておこうか。

◉システミックな農薬
前述したとおり、辞書のsystemicの項には「(農薬が)浸透性の」という意味も記載されている(農業関係者のあいだでは「浸透移行性」「移行性」と表現されることが多いかもしれない)。
浸透移行性殺虫剤(systemic pesticide)は、根から茎、葉、実、花粉にいたるまで植物の組織全体に浸透して、加害昆虫に作用する。つまり植物そのものが殺虫効果を持つようになるのだ。代表格がネオニコチノイド系殺虫剤で、水田やゴルフ場の芝への散布、家庭の害虫駆除、園芸用など、日本でもごく一般的に使われている。脊椎(せきつい)動物への毒性は比較的低いとされるが、標的の虫を殺すだけにとどまらず、土壌や水系に拡散して残留する。ハチの大量死や失踪の一要因といわれて久しいほか、ヒトの神経発達障害との関連性を示唆する研究もある。
除草剤にも浸透移行性を売りにした製品(systemic herbicide)が少なくない。薬剤が少しでも葉や茎にかかれば、そこから吸収された有効成分が植物体のすみずみにまで行きわたり、やがては根こそぎ枯らしてしまうしくみ。
5年前、近隣で自主上映されたドキュメンタリー映画『モンサントの不自然な食べもの』(マリー=モニク・ロバン監督)を観た際、遺伝子組み換え作物の種子とセット販売される除草剤として、ラウンドアップの名を知った。海外の話と思いきや、ラウンドアップ自体は行きつけのホームセンターの棚にふつうに並んでおり、このあたりでも常用される農薬だった。この米国モンサント社の看板商品こそが、典型的な浸透移行型除草剤だ。遺伝子組み換え作物や除草剤への懸念について書きはじめるときりがないので、いまは立ちいらずにおくけれど、少なくともラウンドアップを「生分解性」「土に残留しない」とする同社の宣伝は、過去に虚偽広告の有罪判決を受けている。
生産者を食い物にし、世界の農業と食料を牛耳ろうとする巨大バイオ化学企業の恐るべき実態を、ロバン監督は丹念な調査にもとづいてあきらかにしていく。そこに描きだされた産業界・政治家・官僚・学界・マスコミ等々の癒着の構図はまさに「システミック」にほかならず、背すじが寒くなる。
周囲の田んぼに水が入りはじめる3月以降、どこからともなく飛来したツバメが、あちこちでせっせと巣づくりに励む。今年はネコが戸を開けはなしたすきをねらって、わが家の納屋にも巣をかけた。コメをおいしくしてくれる粘土質の泥は、ツバメたちの建材としても一級品にちがいない。願わくは近い将来、環境に蓄積された農薬によってツバメのシックハウス症候群が ─ ひいては地球全体のシックハウス化が─ 起きたりしませんように。

吉田奈緒子(『モロトフ・カクテルをガンディーと』訳者)
初出:『scripta』summer 2018

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