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002 旅に酔い、酒で醒めるという不思議

            写真:モロッコの古都フェズにて(撮影:筆者)

 旅先でも当然、酒を飲むと人は酔っ払います。しかし、旅人が「酒で醒める」こともあるという話をさせてください。

 モロッコの古都フェズでのことでした。そこは砂漠の炎天下、なだらかな丘に純白の石造りの家がハチの巣のように並び、細い迷路がアリの巣のように縫っていました。
 とうてい自動車など入れません。そんな細く入り組んだ路上を、羊の皮を背負い、買い物篭をぶらさげ、馬やロバを連れておびただしい数の人が行き交っていました。
 そんな道路に向けて、これまたおびただしい数の小さな店が開いているのです。
 売っているのは、皮を剥いだばかりの羊の腿肉、新鮮な野菜、乾燥ナツメやバナナ、ターメリックなどの香辛料、靴や衣料、銀や真鍮の細工物、各種の飾り物、羊肉の串焼き、モロッコ風ドーナツなどです。

 そんな迷路を、ぼくも、動くもののひとつとなって歩いていました。そのうち、人や物の熱気と乾燥した暑熱に意識が軽いトランスにたゆたい始めたものです。
 そのとき、せまい通路の角から黒いベールを被った女の澄んだ美しい目だけが微笑みかけたのです。
 と思ったのですが、一瞬ののち、姿は迷路の彼方に消えていました。夢だったのでしょうか、それとも、うつつだったのでしょうか。

 喉が渇いていました。空腹感もありました。
 そんなとき、暗い通路のはての店から羊の串焼きの香ばしい匂いが漂ってくるのです。それで、その店で肉をほおばりながら、よく冷えたビールを胃の腑に流しこました。
 これが実においしいのです。掃除に、すぐ軽い酔いの兆候が心身に広がっていきました。

 ところが、不思議なことに、その酔いはふだんとは逆に、軽いトランス状態にあった心身を覚醒に連れ戻し始めているようなのです。
 砂漠の都市の人と物と街に酔ったのでしょうか、「酒で醒める」という初めての経験をしたのでした。

 その後、チュニジアを旅し、さらにローマとパリに立ち寄りました。
 その途上、チュニスからローマに飛んだサウジアラビア航空の飛行機では、持参していたコニャックが没収されそうになりました。けれども、しつこく交渉した結果、ローマで返却してもらうことができました。

 モロッコもイスラム圏です。それでも、大抵のレストランではビールが飲めました。
 かつてフランスの植民地だったり、ジブラルタル海峡でスペインと接していたりするからなのだろうと思った次第です。

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