見出し画像

「批判なき政治」と「科学の反証可能性(falsifiability)」

  写真:カール・ポパー(Wikipediaより)と著書『科学的発見の論理』

 2017年6月の東京都知事選挙の際、自民党の今井絵理子参院議員が驚くべき発言をなさいました。いわく、 

 「『批判なき選挙、批判なき政治』を目指して、子どもたちに堂々と胸を張って見せられるような選挙応援をします」

 今ごろ、なぜ蒸し返すかというと、noteなどでも、これに似た文章を書いておられる方が少なくないように思えるからです。

 「批判なき選挙、批判なき政治」といえば、「いま行なわれている政治に一切の間違いがない」と考えるほかなくなりますね。

 そこで話を「科学」に移します。人間の「科学」という営みにとって最も大切な性質は、

 「その客観性を保証するために、ある仮説が実験や観察によって反証される可能性が保証されること(=反証可能性:falsifiability)」

 だとされます。

 このことは、科学哲学を極めたカール・ポパー(Karl R. Popper:1902-1994)の科学論におけるもっとも重要な指摘だとされます。

 というのも、ポパーの著書『科学的発見の論理』(上・下:恒星社厚生閣、1971、1972)によると、
 「科学理論は反証される潜在的な可能性をはらんだ仮説の集まりであり、反証に対して説得力のある反論ができるものが信頼性の高い科学理論として評価される」
 からです。

 ところで、政治に関する学問は「政治学」という名の「社会科学の一種」です。で、選挙や当代の政権が実施している政治そのものは「政治学」の考察の対象です。

 とすれば、選挙や当代の政権の政治が「適切である」ことを証明するには、それに対する「反論=批判」を受けて、自らが正しいことを証明するほかないことになります。

 とすれば「批判なき選挙、批判なき政治」は未来永劫、自らの「適切性」を証明できないということになります。
 自民党の今井絵理子参院議員には、彼女の発言が、根底から誤った内容をはらんでいることに気づいてもらう必要がありそうです。

 そういうわけで、実際に行なわれている政治については、徹底した批判を試みることで、その「適切性」を追求する必要があるということになります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?