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20-02. ゲオルク・カントール「『無から有を生じさせる』集合論の妙」

 古希を迎えて早5年余、ときに大学入学ごろのことが思い出されます。その進学の動機は、
 「生命の起源が知りたい」
 というものでした。
 昆虫や魚など、生き物が好きだった少年が、中学時代にソ連からやってきたオパーリンの『生命の起源と生化学』(岩波新書、1956)を読んで、なんとはなしに興味を引かれたのです。

 が、大学の理学部の授業に出て、
 「しまった」
 と思わされました。その初回にこんな板書を見せられたからです。
  ∀ε>0, ∃δ>0 s.t. ∀xR[0<|x-a|<δ⇒|f(x)-b|<ε]
 で、その解説は、
 「任意の正の数 ε に対し、ある適当な正の数 δ が存在して、 0 <|x − a|<δ を満たす全ての実数 xに対し、 |f(x) − b|<ε が成り立つ」
 というものだったのです。そのときは仕方なく、それをノートに書き写しました。で、同時に、
 「あ~、こら、アカン」
 そう思って二度と数学の授業に出ることがなくなったのでした。

 が、あるとき「集合論」の入門書のページをめくっていると、日本語で、
 「え~っ」
 と思わされる事柄が書いてあって、びっくりさせられました。
 「こんな数学もあるんや」
 そう思いながら、集合論を開拓した人の名前を見ると、ゲオルク・カントール。
 「まあ、世の中には不思議なことを考える人がいるもんや」
 そう思うと同時に、以後、いろんなことを学んだり考えたりするきっかけになったようです。

 民主主義の反意語は何か。独裁政治ではない。神権政治(theocracy)にほかならない。何故なら、デモクラシー(democracy)の原義は「人間による支配」だからだ。
 その背景には、西洋近代のヒューマニズムが謳いあげた人間理性への信頼がある。19世紀末に「集合論」を提唱した数学者のカントールは、敬虔なキリスト教徒として深く神学世界を渉猟した。が、同時に「無限の実在」を理性によって捉え直そうと試みた。

 それはこういうことだ。
 「1、2、3……と無限に数えることはできる。が、無限を数える(=区別する)ことはできない」
 カントール以前の人々はこう考えてきた。それを彼は、集合の概念を駆使して可能にする。ここで「集合」とは、
 「指定した範囲内にある、思考の対象として明確な意味を持つ要素の集まり」
 である。その上で「数えるという行為」を定義する。つまり、ある集合Pの要素と別の集合Qの要素が「1対1に対応する」とき、その数は同一だと考えるのだ。これを彼は無限集合に適用して、その要素の多寡(=「濃度」と名づけた)を測定した。その結果、驚くべき結論が導かれた。
そのいくつかを列挙してみる。

① 自然数(0、1、2、3……)の集合と、その一部でしかありえない偶数(ま
 たは奇数)の自然数の集合は同じ濃度ℵ0(アレフゼロ)をもつ。さら
 に、有理数(分数で示せる数)の濃度も同じℵ0なのだ。
② 無理数(「2の平方根≒1.4142……」や「π=3.014159……」など、分数で示
 せない数)を含んだ実数の集合の濃度は、有理数の集合の濃度より大き
 く、ℵ(アレフ)で表せる。
③ 平面上の点の数と直線上の点の数とは等しく、それらの集合の濃度もℵ0
 より大きいℵで示される。
 これらの結論は、明らかに常識的な直感に反する。だからなのだろう、当時の数学者の多くから攻撃された。が、それは確かに、古代ギリシャ以来2500年の間、誰にも解けなかった無限の実在証明の試みなのであった。そして、やがて来る20世紀の数学の運命を決定づける業績となる。

 大学での数学の講義の最初に出会った「イプシロン・デルタ論理」に打ちのめされたエピソードから、話をカントールに移しました。すると、2020年4月、京都大学が、
 「4月中の授業は休講する」
 などと騒いでいるのに気づき、
 「何をあほらしいことを」
 と思わされたのでした。というのも、ボクが入学した1963年当時は、
 「連休までは授業はせぇへん」
 という勝手な教員がいたものです。さらにひどいのは、
 「雨がキライなんや。そやから梅雨が始まったら休講」
 などという教員もいたように記憶しています。

 それに、時間割がひどいものでした。1校時は8時から10時、2校時は10時から正午、3校時は13時から15時、4校時は15時から17時――まるで移動に必要な時間が想定されていないのでした。
 それでも、始めが15分遅れ、終わりが15分早め。これで、まったく問題なし。あ、ボクの場合は、ほとんど授業に出なかったので「問題なし」などと言っていいのかどうか、分からないのですが……。

 いずれにしろ、いまどきの大学が、
 「前期も後期も15回の授業時間を確保せよ」
 などという文科省のあほうな指示に基づいて、真夏の8月にまで授業をしている馬鹿げた状況を目にすると、
 「ああ、大学教員も学生もタイヘンな時代になったんやなあ」
 と思わされることしきり、といったところです。
 で、話をカントールに戻すと、彼の伝記文献などを見ると、息子を技術者にしたかった父親との葛藤が、彼の自らへの不信の要因となったと記されています。

 でも、実は「人間の言葉と論理」だけを用いて「デモクラティックに」集合論を創造した彼の知性と、人類史における最大級の「フェイク・ニュース」がたくさん記されているとしか思えない『聖書』に基盤を置くキリスト教への信仰との絶対的な撞着こそが、彼の自らへの不信の要因だったのではないか。ついそんな風に思ってしまうのですが、いかがでしょうか。

 そこで思い出すべきは、
 「数学には言葉と論理しかいらない。数学の本質はその自由さにある」
 というカントールの言葉だ。実際、集合論は「無から有を生じさせる」方法で構築された。
 つまり、まず、要素が非在の集合を「空集合」と名付け、これをφで示す。つぎに、その空集合だけから成る集合を{φ}で示す。つぎに空集合φと集合{φ}から成る集合を{φ、{φ}}で示す。こうすれは{1、2、3……}に対応する集合が無限に創生される。

 それは文字通り新約聖書「ヨハネ伝」の「最初に言葉ありき」、旧約聖書「創世記」冒頭の「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と表現される、神による世界の創造と同じ方法で構築されたということになろう。
 こうしてカントールは「神の崇高なる作品である整数」までをも「人間の言葉と論理」だけを用いて自由に、いわば「デモクラティックに」創造したのだ。

 ゲオルク・カントールは1845年、ロシアのペテルブルグで裕福なユダヤ商人と芸術好きなその妻との間に長子として生まれた。その後、家族と共にフランクフルトに移住。1860年、ギムナジウムに進学するころには数学者になる決心をしていた。  
 ただ父は、彼を将来有望な技術者にしようと考えていた。このことが、信心深くて父親を献身的に愛しながら、他方で数学に強い憧れを抱くカントールの、母から受け継いだ鋭い感受性に最初の歪みをもたらす。で、自らの希望に反して父を喜ばせようとする葛藤が、生涯にわたって続く自らへの不信の種子を蒔いた。
 が、17歳でギムナジウムの卒業時に、父から大学で数学を専攻することを許される。で、1862年、チューリヒの大学に進学する。が、まもなく父が死亡。1年後にはベルリン大学に移り、数学、哲学、物理学を専門に学ぶ。その師の1人に、のちに論敵となるL.クロネッカーがいた。
 
 それから5年、整数論を深く研究したカントールは博士号を取得する。さらに三角(フーリエ)級数の研究から「無限を数える」試みを開始する。そして1874年、29歳でF.グッドマンと結婚したカントールは同年、自ら創始した集合論の方法を駆使して無限集合の濃度を定義――以後1890年代半ばまで常識的な直感をあざむく無限集合の驚くべき性質を解明して発表し続けた。         

 ところで、2020年の春からずっと、新型コロナ感染症の蔓延で家に閉じこもりがちの日が続きました。で、ときに出かける散歩に重宝していたのが京都の植物園でした。が、最早それも同年の5月6日まで臨時閉園してしまいました。
 ところで、京都の植物園に「ニュートンのリンゴの木」というのがあります。彼は「庭のリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て万有引力を思いついた」などと言われるのですが、どうも、この話は眉唾のようです。ならば京都の植物園の「リンゴの木」も……。

 まあ、それはいいのですが、彼が万有引力を発見したのは1665、6年のことでした。ロンドンでのペスト流行のためにケンブリッジ大学での仕事から解放され、故郷のウールスソープで「創造的休暇」を過ごしていたときに、彼は「万有引力の法則」を発見したのだそうです。
 で、そのマネ、というほどのことはないのですが、改めて「集合論」に挑んでみたのところ……むつかしい。
 というのも実数のうち、分数で表せる有理数に対して、分数で表わせない「2の平方根」や「π」などは無理数と呼ばれます。で、そのどちらが多いか――濃度が大きいか――というと、答は無理数、なんですね。
 証明を読めば「なるほど」と思わされます。が、どうにも「腑に落ちてこない」わけです。

 そこで思い出すのは、カントールのころから発達した20世紀の物理学です。アインシュタインの相対性原理やハイゼンベルグの不確定性原理が端緒を開いた量子力学など、「おはなし」は分からなくもないのですが、どうにも腑に落ちてきません。
 で、新型コロナ禍のおかげで蟄居を強いられながら、そんな物理学がもたらした技術や産業が、未だ適切に制御しえない現代文明に思いを馳せながら、カントールの紹介に落とし前をつけてみました。

 しかし、それにしても余りに独創的な彼の集合論は、数論で有名なJ.W.デデキントなど、一部の例外を除く数学者から苛烈な攻撃を受ける。なかでも、
 「整数だけが神の崇高な作品で、存在する唯一の数なのだから、存在しない無理数(2の平方根など)や超越数(πやeなど)の研究は無意味だ」
 そう考える、かつての師クロネッカーは、学問上のみならず世俗的にも彼をいじめた。
 結果、カントールは、ときに学術雑誌への論文掲載を拒否される。さらに生涯、ドイツの最高学府ベルリン大学に職を得られず、地方大学の教授に甘んじるほかなかった。

 このことが少年期の葛藤を拡大再生産したのであろう。偉大な業績を達成しながら、それが評価されないことから、精神病院への入院という悲劇を強いられる。で、以後、その生涯は深い憂鬱の発作を伴う自己卑小感と、その直後の極度に冴え渡った研究生活を繰り返しとなった。
 その上カントールは、1890年代に2度にわたって集合論それ自体に内在する深刻な矛盾を発見する。さらに1901年、B.ラッセルが、当代の数学そのものを瓦解させかねない集合論にからむパラドックスを提出する。
 その詳細はここでは論じきれない。が、こうした出来事もまた、彼の精神に強いストレスをもたらしたのだろう。カントールは1918年、ハレの精神病院でその生涯を閉じたのだった。

 では、集合論の矛盾やパラドックスは、その後どう継承されたのか。
 D.ヒルベルトは、一定の公理を出発点に、純粋に論理的な数学的世界を構成する公理主義を提唱する。
 K.F.ゲーデルは、「①数学には決定不可能な命題が存在すると同時に、②数学が無矛盾である限り、数学は己の無矛盾性を自分では証明できない」――「不完全性定理」と呼ばれるこの命題によって、人間理性の限界の存在を証明してみせた。
 それは カントールが、神学的世界に同化させた理性の力で創出した集合論に端を発する数学的営為の到達点を示唆している。
 そこに人間理性の限界を見て落胆するか。それとも、限界ある理性が打ち立てた真理は、新たな人間理性の挑戦によって永遠に超克され続けると考えて、自らの未来の可能性に安堵するか。
 そういう今日の激越な問題提起の端緒を、カントールは19世紀の末に切り拓いたのであった。






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