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脳内の余白

ストレージって言葉がスマホやらPC、タブレット類、ゲーム機などで使われるようになって随分経った。
容量ってどうやって分配して何を残して何を削るか。
歳を重ねるほど人間の脳もそうなのだと感じる。
断捨離なんて言葉も使われるが、思い出の品や人間関係をリセットしたところで記憶まで簡単に消すことは出来ない。アニメの攻殻機動隊では自分の外側に記憶を委ねる事を外部記憶装置と呼んでいた。外付けハードディスクみたいなものでもあるが、作中では思い出の品をそう呼んでいたのが印象的だった。映画のハリポタでは頭の中が記憶でパンパンになったら魔法で外に取り出して、ピンヅメにして後から必要な時だけ見ることができ、取り出した記憶は他人も見ることができるという描写があった。他人も同じように見ることができるって、これがもし実現したら裁判とかでめちゃ有効では?と考えたりした。個人の中にだけある真実を多角的に検証して事実を探す作業がより先鋭化しそうに思う。

しかしながら現代には記憶が取り外し可能な状態にはない。
「そんな昔のこと忘れちゃった」的なことは言いつつも。脳のどこかには残っていて引き出す事が出来なくなっているだけ。困るのは思い出としての再生が出来なくなっているのに、脳の他の部分に影響が残っている場合。習慣や人付き合い、価値観という部分に大きな変化をもたらしたがなぜそうなったのかが分からなくなってしまっている。

記憶を脳みその図書館の奥の奥から引っ張り出す。写真を残したり、日記を書き起こすのは現代人が記憶の栞を作るには今のところ有効な作業だと考えている。
アーティスト達が作品を生み出す行為は記憶の栞の共有作業のようにも思えてくる。自分の観てきた景色や、持っている感覚、言葉にするには言葉だけでは足りない感情の揺れを表現する。受けてる側は共感や反感で自分の記憶とまた向き合う形になる。

SF内での技術も魔法も今の日本社会には存在しないが、
現存する作品の数だけ、他人の記憶に触れ自分の記憶を蘇らせる事が出来ると思う。
ただ危惧しているのはSNSの進歩により他者の意見に触れる機会が圧倒的に多い事。自分がどう考えているのかを熟考するより先に人の意見が手に入り、声の大きい方に吸い寄せられて言ってしまう。共感したとコメントをつける人をよく見かけるが1つの意見や1人の人にそれが集中し、かつ長期間に渡り発言に矛盾が生じてもそれを許容してしまえる状態ならばそれはもう洗脳の域に片足を踏みこんでいると思えてならない。人の記憶に触れることで自分の経験が呼び起こされる。
一見良きことだが同時に危険性を孕んでいることにも改めて向き合うところにきたのではないかと考えている。

自分が望むよりも多くの情報に触れる機会がある今、自分の脳にどれだけの余白が残っているのか今一度振り返ってみてほしい。容量がいっぱいだとOSは正常に起動しないし、新しくアップデートもできない。
でも人間は機械みたいに簡単にデータを破棄出来ない。
破棄したと思い込む。単純でないところが欠点ではなく本来は進化によって得たスペックのはず。
今一度、自分という個体にはどんなことが出来て、出来ないのか。振り返っていく機会があればと思う。

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