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いきなり介護

お仕事順調、家庭状況も特段問題なし。60歳定年まで、少しのんびり過ごしましょうか・・・・

そんな思いが一気に吹き飛んだ2か月。

実家の父親倒れる

5月後半、夜遅くに電話が鳴った。“父さんが救急車で運ばれた” 遠く県外に住む弟からで、私は急遽コロナ禍の中、日曜日に飛行機で東京に戻った。そこにいたのは、私が娘だとわからない母だった。

”どちら様?” 私は、二の句が告げなかった。軽い呆けと思っていたのに、こんなにひどくなってしまうものなのか。コロナさえなければ、例年通り、年に一度は帰省できていたのに。そうすれば、こんなにひどくなる前に気づいてあげられたのに。後悔ばかりが先に立つ。金曜日の朝倒れた父に付き添ったはずの母は、救急病院から一人出てしまい、5キロの道のりを一人歩いて帰宅していた。普通、迷子になるはずなのに、どこをどうやって帰り着いたのか、まったく不明ではあるが、ともかく無事に帰宅していたようだ。土曜日に弟が到着すると、”お父さんが帰ってこない”と訴え、丸一日何も食べていなかったことが判明。自宅の冷蔵庫の中は、食べ物らしきものが、卵とピーマンのみであった。あるものといえば、大量の”だしの素”と”ごま”。昭和一桁の父は当然、炊事をしないので、とりあえずご飯だけ炊くことができた母についでもらい、ふりかけを食べて生き長らえていたようだ。身長170cmあるのに、体重はわずか51kgしかなかったと入院時の記録にあった。

何もできなくなってわからなくなっていた母

”朝は全然食べないの”と言ったことにも驚いた。健康オタクの母の名言は、”朝食はエネルギーの源。晩御飯を食べなくても朝ごはんは、しっかり食べないといけないわ”と言っていたのに。母は、何を食してきたのだろう?   ―謎の栄養剤と青汁のみを見つけた。―人間食べなくても、なんとか1週間くらいは生きて行けるようだ。取り急ぎ、スーパーで大量の食材を買い込んでご飯の支度を開始。美味しいを連発して、少女のようにご飯を頬張り、OL時代の同僚と思しき私相手に、仕事の話をずっと言って聞かせてくれた。自分が独身だと思っているのにもびっくりしたが、時折、”あんた、私の娘に似ているね”と辻褄の合わないことも言い出した。翌日は、市役所に連絡をして、介護チェックを受けることになった。結果は要介護3,現在も入院している父は、寝たきりで話すこともままならないようで、要介護4の認定が下った。

今後どうするか、早急に決定しなくてはならなくなったこと

このままずーっと実家にいることはできない。弟に次回来てもらう前に私がすべきことは、母を施設にいれること。父を救急病院から、それなりの病院へ転院させることだ。それには、仕事は残念ながら退職することにした。試用期間の分際で、長期離脱はさすがにありえないことだった。実家にいる間、こちらで就職活動をするため、ハローワーク(現在の自宅付近の情報はどこでも閲覧できるのがありがたい)に行き、市役所で両親の各手続きを行い、民生委員さんへの連絡、ケアマネージャーさんとの打ち合わせをすることにした。運よく、ケアマネージャーさんがいろいろ当たってくださり、自宅に戻るまでのわずか3週間で施設の目途をつけることができ、仕事も自宅に戻ってから面接試験をうけることになった。父の転院も決まり、今後のリハビリもかねてたくさん話すこともできた。

今度は姑に異変が起こった

短かった3週間の母の介護が終わり、施設に無事に入れることもでき、おそらく次回、両親に会うことができるのは、亡くなってからだろうと思いながら、後ろ髪をひかれつつ私は実家を後にした。空港まで迎えに来た夫が、開口一番、”びっくりすることになる”と言ったセリフは、家に帰り着いたとたん現実のものとなった。姑が少し足が不自由ではあった程度だったのが、全く歩けなくなっていた。そして食欲も一気になくなってしまい、食べられるのは少しの果物だけとなっていた。その日から、私の姑の介護が始まった。トイレまで連れていくことはもちろん、毎日の身体拭きと、食べられないとはいえ、用意しないとならない3度の食事。就職活動しながらの介護は、さすがに堪えた。決して仲の良い間柄ではなかったし、よくある嫁姑問題では、何度も離婚が頭をよぎっていたからだ。自分の時間もない中での求職活動。ほとんどが”キャリアよりも年齢が”ということで、履歴書を送ることさえお断りされる日々に忙殺されていった。もう、本当に、神も仏もあるものかと次第に精神的に参ってきてしまっていた。恨みがなかったかといえば、嘘になる。ところがある夜、普段は挨拶もしない姑が、”いつもすまないね、ありがとう”と言ったのだ。嫁いで34年、ほとんどお礼など言われたことはなかったのに。私は、この一言で今までのわだかまりは、なくなった。そんな生活が2週間ほど続いたら、幸運にも施設が見つかり、すぐに入所となった。これでやっとじっくりと就職活動ができると思った矢先、こんどは、姑の体が指定難病に侵されていることを知ることになった。

急遽、救急病院へそして転院

当初は、難病であることはわからなくて、体調が一気に悪化して急遽、施設から病院へ行き、紹介状を書いてもらい入院となった。3週間もの間、個室でお世話になることとなったのだが、検査三昧の後、結論は不明のまま、もっと専門の病院へいくことになり、転院も救急車で付き添った。ここでも無職の状態だからできたことと、自分の置かれている状況に感謝した。転院先では、専門医がいたため、即座に現代の医学では完治しない難病であることが判明。これからは長い闘病生活が始まると言われた。コロナ禍であるために、会うことはできず、専ら週に一度、電話で依頼された本人の欲しいものを入院先へ届けるくらいになった。正直、少し肩の荷が下りた様に感じた。

やっと掴み取った仕事

転院騒ぎの同じころ、就職試験を受けたところから連絡をもらい、無事に内定をいただくことができた。まさかの筆記試験があったし、30代40代も多く受験していると聞いたので、ほとんど期待はしていなかった。ところが合格したのは、私だけであった。嘱託職員だから、パートタイムではあるが、定年の65歳までは勤務できるとのことで、せっかく掴んだチャンス、これからは、初めての業界でしかも試験必須であるから、気を引き締めて日々精進していかねばならない、と心に誓った。8月から始まる2週間の研修後、そのあと行われる試験に落ちたら、即退職。私は、入社日にもらったテキストを試験日までの3週間、マーカーペンの箇所を徹底的に暗記した。結果は、合格。もうこれで無職生活とは縁が切れる。フルタイムではないにせよ、まだ私は社会に関われるということで安堵した。この状況なら、今後高齢の3人に何があっても対応できる。一時は自分の不運に絶望したけれど、振り返ってみるとこれでよかったと思えた。

まだ続くかもですが

今後はまだまだ高齢3人の状況は予断を許さないとは思いますが、これからも私らしく、決してめげることなく日々を過ごしていきます。      最後までお読みいただき、ありがとうございました。






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