現想対称性再考その2

事実は小説よりも奇なり

「事実は小説よりも奇なり」という諺がある。それは小説のみならず、あらゆるフィクションに対して当てはまるだろう。ここで3月9日の音羽さんのツイートを引用させていただく。

すなわち、「現実の地図は架空の地図よりも奇なり」といったところである。逆説的な話だが、現実的すぎる架空地図は、逆に不自然である。現実の地図には、「もしこの地図が架空地図だったとするならば不自然だと感じる部分」が多少は含まれているものだ。そしてその例の1つが、世界最大規模の都市圏が日本という島国にあるという事実である。

改めて気付く現想対称性の意義

これまで、想像地図の人は現想対称性の意義について、

「想界内の想像地図作者が描く想像地図」が「現実の日本の地図」と寸分の誤差もなく完璧に一致していることを前提にするのであれば、想界は「想界内の想像地図作者が正しく日本を思いつける程度の複雑さ」を持っていなければならない。

という説明を行ってきた。が、先程挙げた音羽さんのツイートを見て、もう少しスマートに説明できることに気付いた。

現想対称性の意義は、

想界には「向こうにも想像地図作者がいて、彼または彼女は日本を想像地図として描いている」という設定があるが、そのためには想界が「彼または彼女が日本を思い付けるような世界」でなければならない。そのために想界に必要になる条件は、「現界にないものを想界に作ってはならない」よりも、「現界の事実は小説よりも奇なりっぽいところを向こうの作者が思い付ける要素が想界に存在すること」が重要である。

と説明した方が、わかりやすいかもしれない。

前回の議論とも重複するが、現想対称性は「現界と想界が平等(な世界である)」という趣旨ではない。現想対称性は、「向こうの作者が想像する世界がこちらの世界と完全一致すること」こそその意義である。そしてそのために「義務規定」が存在する。

現想対称性が言う「対称」とは「こちらが描く地図は向こうの世界に一致し、向こうが描く地図はこちらの世界に一致する」という意味であって、「平等」という意味ではないのだ。小泉進次郎のような言い方になるが、「現想対称性」は「現想対称性」であって、「現想平等性」ではない。

ならば、現界と想界の平等性を規定するものは何か?

結論から言えば、現界と想界が平等だという趣旨の設定は存在しない。

住岡解釈はそれに近いが、あくまでも住岡解釈は「想界は『どこにも存在しない世界』ではなく『観測不可能な実在世界』であると見なしても宇宙物理学的に正当性がある」という趣旨である。「と見なしても宇宙物理学的に正当性がある」という部分が、重要な意味を持つ。

住岡解釈の前提には、マックス・テグマークの多元宇宙論がある。テグマークの多元宇宙論を基盤とし、それを前提条件として用いた上で住岡解釈という設定がある。その前提条件が入っている以上、テグマークの多元宇宙論を抜きに住岡解釈を語ることは、肝心なものが抜けているのでナンセンスである。多元宇宙論なき住岡解釈は住岡解釈ではない。仏作って魂入れず。

逆に言えば、テグマークの多元宇宙論が成立しないのであれば、住岡解釈は成立しないということになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?