現想対称性の意義とは?

想像地図の創作には「田谷野解釈」「現想対称性」「住岡解釈」という3本の柱があることについては、昨年8月のnoteにも書いた

今回は2番目「現想対称性」にまつわる話について書こうと思う。

先日、仮想世界創作サークル「新拓都」の宇橋別さんが、想界創作の創作論との比較という内容の記事を公開した。下記がその記事である。

そして想像地図の人は気付いた。「現想対称性」という概念は意外と誤解されやすく、必ずしも直感的な概念ではないと言うことに。

なお、これは現想対称性の意義を考察する目的で書いており、誤解を非難する目的ではない。むしろ、想像地図の人の説明が不十分であったことを反省し、どのようにすれば上手く伝わるのかを再考察することが、本来の目的である。

0. 田谷野解釈との関係から

想像地図には「田谷野解釈」という規定がある。これは、想像地図の作者は世界の造物主ではない、とする考えのことである。これは、想像地図世界(想界)は作者の理想を体現する世界ではなく、想像地図は旅人や科学者の立場から演繹に基づいて描くものであるという意味である。

しかし、田谷野解釈だけでは、作者にとって都合の良い世界ができてしまう可能性を否定できない。例えば、「新幹線の並行在来線が経営分離されない世界線はどのような世界になるのかを検証するという建前で、日本に似た世界を用意し、科学者の立場から演繹に基づいて地図を作るという創作」は、田谷野解釈に違反してない。

作者は神ではない、と規定しただけでは、理想郷が仕上がる可能性が排除できないのだ。架空世界のリアリティを上げることが想界の目的である以上、それはまずい。リアリティを上げるためにはさらなる制約が必要となる。そのための制約の1つが現想対称性なのだ。

1. 現想対称性は「制約」である

現想対称性は、確かに表面的には「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」っぽさを持っていることは事実である。しかし、これは現想対称性がもつ性質の「氷山の一角」である。

「想界内の想像地図作者が描く想像地図」が「現実の日本の地図」と寸分の誤差もなく完璧に一致していることを前提にするのであれば、想界は「想界内の想像地図作者が正しく日本を思いつける程度の複雑さ」を持っていなければならない。

これが現想対称性である。すなわち、現想対称性は、

1. 「想界内の想像地図作者が描く想像地図」が「現実の日本の地図」と寸分の誤差もなく完璧に一致する
2. 「1を満たすためには想界はどのような世界でなければならないか」を作者は考えなければならない

という2つの部分に分けることができる。確かに「1」は、「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」っぽさを持っている。しかし、「2」は、作者が負うべき義務を規定するものである。

すなわち、現想対称性には「(1)性質規定」と「(2)義務規定」の2つが含まれる。両者は「車の両輪」であり、性質規定だけではダメなのだ。義務規定が重要な意味を持っている。

問題点は、性質規定のことも義務規定のことも両方とも「現想対称性」と呼んでおり、あたかも性質規定だけが現想対称性であるように誤解されがちであることだ。

実は、性質規定には「新山解釈」、義務規定には「北岡の原則」という名前があるので、そう呼んだ方が誤解は少ないかもしれない。

2. 現想対称性が言う「対称性」とは平等性ではない

既に述べたように、現想対称性は「性質規定」だけでなく「義務規定」が含まれていて、後者が重要な意味を持つ。

現界と想界が平等であると主張するために義務規定があるのではなく、想界のリアリティを保証する為に義務規定がある。すなわち、

1. 想界内の想像地図作者が描く地図が、日本地図と完全一致する(=性質規定)
2. そのためには想界は「こうでなくてはいけない」(=義務規定)
3. 2が成り立つなら、想界内の想像地図作者が日本を正しく思いつけるはず
4. 3が成り立つなら、想界はある程度リアルであると言える

という論法によって、想界のリアリティを保証する為に存在する。

アルカの作者は、架空言語にアプリオリ性(=地球の要素をパクらないこと)を持たせることによって、空想世界のリアリティを保証しようとした。これを「セレニズム」と定義するのであれば、「ソーチズム」は「向こうの作者がこちらを思いつける程度の性質を想界が備えているなら、それをもって想界にリアリティがあると保証できる」という考え方と定義できるかもしれない。

3. 現想対称性は「現実に馬鹿正直であること」ではない

現想対称性は、「何でも現実に馬鹿正直に」という趣旨ではない。

思いつけるかどうかが重要なのであって、想界が「彼または彼女が日本を正しく思いつけるような世界」でありさえすれば、現実と違う設定を導入しても、何ら問題ないのである。

だが、「思いつくことができるならばOK」はその通りなのだが、「思いつくことができるか?」はきちんと考えないといけない。そして、「思いつくことは不可能ではないけど普通はやらない」という結論になるなら、そのような設定を導入することの妥当性には疑問符がつく。

そして、当然のことながら現想対称性以外に「田谷野解釈」や「住岡解釈」も守らないといけない。

4. 『イナゴ身重く横たわる』とは何が違う?

歴史改変SFの「高い城の男」は「もし第二次世界大戦で枢軸国が連合国に勝利していたら」という内容の小説である。この小説の作中には、『イナゴ身重く横たわる』という歴史改変SFが存在し、その内容は「もし連合国が枢軸国に勝利していたら」というものである。

しかし、『イナゴ身重く横たわる』の内容は現実の史実とはかなり異なっている。そういう意味では「対称」とは呼べないし、そして「高い城の男」の作者に義務を課すために『イナゴ身重く横たわる』が存在するわけでもないだろう。

よって、これは現想対称性とは本質的に異なるものであると考える。


いかがだろうか。





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